2014年6月30日月曜日

去年のメモ 発見。

去年の5月のメモを発見した。
心中が、そのまま吐露されていると思う。面白いので、記録しておこう。

こういう事に、悩み、誰とも事実をありのままに見ての意見交換ができずに苦しんでいたわけです。

誰かが、自分の考えと自分の意思を持つための参考になれば良いと思います。

・・・・・・

あそこは、家族じゃない。会社だ。牧師が小規模事業主で、信徒は社員か。

教会株式会社の次期社長は、社長牧師の親族から社長牧師が選び、神学校へ学びに行く。どんな信仰の人であっても、親族から選ぶ。
役員は信徒リーダーたちで、これまた牧師が選び、通信で学んでいる。どんな人物であっても、牧師の裁量でリーダーになる。神からの任命だと言われて。
株主は…、世の制度とは違う。株主は、なぜか社員でもある。
牧師のビジョンを達成するための要員だ。

「平信徒」はいないと言いながら、実際には、平信徒はいる。
何も知らされず、何の意見をいう場も無く、勝手に決められてゆく事柄に盲目的に喜んで、感謝して、賛成し続けることが、良き信徒と言われ、異を唱えるなら、「自分の考え」をもつ「自己中心」と言われる。

牧師に、聞こうものなら、「権威に服従しない傷がある。癒されていない。根本的な重大な問題が解決されてない」となり、それでもつっこむと、感情的になり、きれる。
「だったら、来なきゃいいよ!」
「私のその問題と言うのが仮にあるとしたら、先生にはそれが分かっているのですか?」
「時間をとってあげるから、頼めよ。解決してやるから。」
凍りつく。こんな人に、心を開いて話をするのは危険だ。あえてするならそれは、私こそ愚か者だろう。

いったいなんなのだ。キレなければ、反論に対応できないのか。

私たちは、家族ではないのか?
そして、頭は、キリストのはずではないのだろうか?

キリストの身体である私たち平信徒(←あえて言う)に認識されて無く、信認もない人が、後継者として神学校にいくなんて、起こりえないと思っていた。
次の牧師が立つとしたら、サムエルのように、イエスから任命されたことをみんなが認識するようになることで、明らかなるものとばかり思っていた。
いきなり礼拝で、「行くことになりました。」拍手~???私は何に、拍手をしているのか?
彼が次の牧師候補となっていることは明らかでしょう。どんな言い訳を作り出しても。
なのに、そんな、なし崩しで発表し、なし崩しで私たちは受け入れるのか?

あのエンパワード21も、怪しい祭典だ。当事者はそうは思ってないようだけど、品性のなさがチラシから、その文章から醸し出している。誰も何も思わないのか?
こんな大きな聖会にする必要がどこにある。
立派な説教者を外国からたくさん集める必要とはなに?
この大イベントに、費用はいくらかかっているのか?
本当に「日本で一致したい」というなら、”日本の”クリスチャンでやればいい。
派手な大会にしなくても、信徒同士の交わりが持てる場を定期的にもち、教会間の垣根を取り除いていけば良いではないか。
外国のイベントと講師を依り代にした一致など、詭弁だよ。
何の聖霊の現れのない、やる気もよく分からない、救いの実績での証もほとんどないクワイヤーなのに、ビックイベントの奉仕の要請をなぜ喜べる…?地域ではほとんど無視されているのに、ドレスと、奉仕の箱、周辺教会の評価だけは、派手になって行くこの矛盾に、本当に誰も何も思わないのか?
これが、この要請が、神様からの祝福の証?成果がないのは、今が種まきの時期だから?真実だろうか?ただ単に、担がれているだけだろうと思うのは私だけなのだろうか。

ひとつの結論に戸惑う。

ここは、キリストの身体であるエクレシアではないのではないか。キリスト教という宗教ともちがう。
ここは、牧師教という小規模宗教団体ではないか?
だから、後継者は、親族で話し合い、親族から選ぶのでは?
だから、牧師のメッセージや教義、解釈に疑問を持つ事がタブーになるのではないか?

ここに一員でいる意味を見出すことが困難になっている。
何より、家族や友人、知人をここに、連れてきたくない。
私自身が、違和感を感じるのに、そして、嫌な思いを沢山したのに、同じ思いをさせたくない。

人よりも、みことばに従おうと決めた。恐ろしさまで感じたが、それも丸ごと、イエスに委ねて断ち切った。
あの時から意識が自立して、教会にある不条理で無礼な対応に向き合い、対応するようになった。
すると、関係が取れなくなってきたのだ。私は、問題児のようになっているではないか。
事実を知るために対話がしたいだけなのに、そのコミュニケーションがとれない。
心理的奴隷状態なら関係が持てるのに、自由人となると持てなくなるのは、いったいどういうわけだろう。

聖書の言うように、兄弟姉妹なら、いろんな意見があり、協議があり、そうやってキリストによる一致へと近づいて行くことができると思う。
しかし、階級制があれば、それはできない。異なる意見は、直ちにドップダウンを妨げるものとして、邪魔者扱いとなる。

真実は、いったいどういう状態なのだろう。神の目から見るような、実情が知りたい。
いったい、どうなっているのか。誰か話しのできる人はいないのか。

私は、イエス様によって集められた本当の群れ、エクレシアを求めているだけです。
ここが本当にあなたの群れですか。
イエス様、私はどうすれば良いのですか。どうぞ、私を諭し、教え、導いてください。



2013/5/27

2014年6月29日日曜日

私たちの特権 〜人生のメイキング〜

早いもので、2014年も半分が過ぎました。
今日は、前期(1~6月)の振返りと、後半の確認。そして、7月の計画を立てていました。
この前期は、なかなか楽しい半年間で、満足満足。

でも、思いました。
昨年までは、どうにも自分の頭と意思を用いて、自分自身の人生の日々をメイキングすることが、本当に困難だったです。
常にフラストレーションが募る1年1年を繰り返していたな~と、つくづく思います。

また教会の話ですが、「私たちは、キリストによって自由!」と言いながら、でも「あなたの計画は成らない。神の御心だけがなるのです。」という矛盾したメッセージをよく聞きました。
でも、講壇から語られる、この矛盾した”神”のメッセージが、かなり強力なダブルバインド(二重拘束)になってしまうんです。自由な発想は制限されるし、自分のやりたいって欲求には罪責感がチラついて、人生設計をするのが、とてもやりづらかったです。

教会に通う人で、こういう束縛感を持っている人が多くいる見受けられましたが、自覚している人がいるのかどうか、よく分かりませんでした。
また、その拘束の中でやりくりしている方は、その自覚がないですから、こういった話をすると、「癒しが必要なのね」と心配されてしまいます(^^;)

でも、教会の外で会う人々と話しをすると、意外に同じように自覚してる人って多かったです。どこでも似たような問題があるのだなあ〜と、おかしかったです。

で、そんなメッセージで引用される聖句といえば、これですかね。

 箴言 19章 21節
 人の心には多くの計画がある。 しかし主のはかりごとだけが成る。

このみことばだけを取り上げてしまうと、拘束メッセージになりやすいので要注意〜!

まず、神様と私たちとの温かい信頼の関係を知っていることが本当に大切ですね。
他者の介入の余地のないほどの、主と自分との温かい信頼関係を理解していれば、影響力のある話者の「コントロールしたい」という隠れた意図を見抜けるし、静かに避ける事が可能です。


神様の懐の内に生きながら、人生をメイキングするのは、私たち一人一人の特権ですし、役割です。

私たちは多くの計画をもちます。
そして、その計画と神のことばと照らし合わせてアレコレと考えることは、とても楽しいことです。
どの計画が、神様からのもので、どれが益とならない物なのかを発見して行くのは、主との楽しい共同作業。その交わりによって、私たちはもっともっと主と親しくなっていけるのですから嬉しいものです。

そうやって、みことば(主イエス)によって磨かれて、私たちは神様の意図と栄光をピカピカの鏡のように映し出して行く者へと変えられていく…。この歩みをもっともっと楽しみたいです。



2014年6月22日日曜日

いつのまにか、ブログ1周年

気がつくと、ブログが一周年を経過していました。ははは!
去年の5月に、おっかなびっくりですが、ブログを開設したのが初めでした。

月に数回の更新だけで、ご覧の通り大した記事ではないですが、少しでものぞいて頂けると、やはり嬉しいものですね。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。

当時は、とあるキリスト教会に所属していて、いろんな疑問や不条理と思える事柄について、悩みは行くところまで行って、行き止まりに至っているといった状態のときでした。

でも、当の教会の中で話で、この手の話を客観的に自立して対話できる相手が見つからず、自分の考えを検証することができなかったので、非常に苦しく、前にも後にも身動きがとれないとはこの事じゃないかいなと、よく思ったものです。

こういう状態のときって、他のどの分野もすべて停滞するみたい。
聖書をこよなく愛する私にとっては、おなじ神の家族であるはずのコミュニティは非常〜〜〜にっ重要な場所なので、これが健全化しないと、人生の全分野にまで影響しちゃうんですよね(汗)

なので教会について、所属しつづけるのか否かを決する事が、昨年(2013年)の最優先課題だったのです。昨年11月、ついに所属を辞すると言う事で、結論を出す事となりました。年間目標の達成ですかね。ははは!

今は、みことば大好きの兄弟姉妹と、2週に1度くらいのペースで集まっては神様談義に盛上がってます。この素朴~~~な交わりの中に、私たちの救い主がいることが、人々に知られるようになったら嬉しいよねと、話しています。

この1年でのブログの記事を改めて読むと、何か一生懸命と言うか、生真面目と言うか、必死というか、余裕の無さが感じられるものが多いですね。書きかけのとかもあるし。なんというか、以前の束縛された状態からの脱却に必死になってるような感さえしますな(苦笑)

それも経過観察として面白いと思いました。私たちは、色んな経験をして、神様に成長させていただきますからね。キリストの身丈に至るまで。その経過を楽しみたいと思います。

最近は、職場や家のことで忙しくて、ブログを忘れぎみ。ちょっと(いや、かなり?)間が空きましたが、またちょろちょろ~と書いていきます。良かったら、たまにのぞきに来てくださりませませ。
気軽にコメントいただけると嬉しいです。

また1年、よろぴくおねがいします(^^)

2014年4月18日金曜日

お気に入り… 岡田くん

すみません。どうぞ、スルーしてください~(´ ▽`)/


最近、急上昇でお気に入りなのがコチラ。V6の岡田くん。
努力家で読書家で、よくモノを考えている。家族思い。後輩思い。礼儀正しい。まじめ。ストイック、思慮深い。常識人 etc。そして、かなりのイケメン


SP」の頃から、お気に入りだったけど、最近とくにお気に入り♡


かんぺきや


岡田くんが、会社にいたとする

かなり、真剣に仕事をすると思う。
雑念の一切を全て振り切ってる。クオリティ上がる。

机の上は綺麗にする。
今も綺麗だけど、もっと綺麗にする!毎日、ウェットテッシュでふく!
紙コップで作ったペン立てはやめる。カスタムメイドで使いやすいけど。

他の女子と話していても、自制する。動揺を顔にださない!余裕を保つ!

職場は制服だけど、行き帰りの私服は絶対に手抜きをしない。

お昼の公園の30分間の散歩は欠かさない。チャンスを待つ!

メイクもナチュラルだけど、一日崩れない、くすまないメイクを研究する。

美容院は、月に一度はいく。

基礎化粧品をワンランク上げる。

ユニクロは卒業。下着もワコールにする。深い意味はない。見えない所から!

ナチュラルな香水を探す。自然な風に香るようにまとう。

部屋に花やグリーンを増やす。部屋のカーテンを水色にする。何となく。

洋服のジャンルが変わる。甘すぎず、辛すぎず、流行にとらわれないスタンダードなもの。
しなやかな、女性らしい服装。

22時には寝る。早起きをする。朝のランニングを継続する。

ストレッッチで身体をしなやかに、柔らかくする。

読む本のジャンルが変わる。(現在「秘録 陸軍中野学校」←こらこら)

25年ぶりに剣道の型を習いを始める。(岡田くんは居合。私は型)

・・・・・

なるほろねぇ。アコガレの存在が近くにいると、人って変わりますのね。
なんか、研ぎすまされて、根本から変わろうとするってのが分かりましたワ。
神様の意図したBestな状態への余地が、まだまだ満載にあるようです。

そっか~。
もっともっとイケるな。私~~~*


追記:
過越を思いめぐらしてたです…。ふ〜む。どうやら発想が逆のようですね。

↑コレ、全部、本来自分がしてたいことだもの。
こうなってるほうが、自分はもっと楽で、楽しい*
そうしてないことに、かすかなストレスを持ち続けてるってことありますよね。

むしろ、本来したい楽で心地良い生き方を妨げてる、けだるい思考や、必要の無いムダなことをして消耗してる事柄を ”止める” ことで、自然とこう↑するようになることばかり。
実際、その無駄な思考や行動に心当たりがいくつもあります…。

まだまだ、不純物があるものですね。純金のなかのかなかす取り除こ〜♫
もっと自由に、もっと心地良く、神様の大庭で生きられる*





2014年4月15日火曜日

過越の夜に思う…

出エジプト記 12章 13節
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

14日の18時から、過越の祭が始まりましたね。
とても美しい満月でした。神様の契約の印でもある、くっきり綺麗な円が輝いてました。

聖書を愛する友人たちも、おのおのが出来る範囲で、過越の祭を始めてます。
マッツア(種無しパン)を自分たちで焼いて作ってみたり、ワインや市販されているマッツァをゲットしたり、家族全員でイエス様が弟子たちと行ったような食卓をもったり…。
それぞれが、この約束された時に、神様の中へと入っていっています。

経験することって、本当に大切ですね。
経験することで、理解できることが本当に沢山あるのだと驚かされます。

神様が備えた例祭を初めてまともに意識してます。例祭のなかには、私たちが知らなかった神様の意図がたっぷりと詰め込まれてる。神様、私たちの主は、なんて素晴らしいんだろ。
私は、もっともっと主の意図を知りたい!


さて、私の過越の1日目は、いつもの如く、一人で静かに聖書の出エジプトを読んでました。
マッツァはクラッカーで代用〜。そして、あのパワフルな、世界にとどろく大国エジプトから引き出された大脱出と、この神様が定めた過越の祭に思いを巡らせていました。

私は、この世のエジプトから脱出しているってことが、本当の現実、真実であることに、大きなインパクトを受けています。昨年まで、頭では分かっているようでも、実際には四苦八苦していました。まだ奴隷の状態でいるってことに、本当に苦悩していました。

でも、今年になってから、ますます神様との関係が深まってきて、驚いています。
とにかく、聖書を知る事。みことばを知る事、理解することです。ホントにそうですよ。
ただただ、聖書のみことば(イエス)が、私をあるべき姿に整えてくれる。なんて心地いいことでしょうか。これをどう表現していいのか分かりません。

そうそう以前、教会で映画「十戒」を見ました。
災いが通り過ぎるために、家の門柱と鴨居に子羊の血をつけます。
災いは、門に血のしるしのある家を通り過ぎていきます。過ぎ越すワケです。

そのとき、その子羊の血こそが、私たちのメシア(救い主)イエスの血である事が分かって、本当に驚いたことがありました。驚きと共に嬉しさと喜びで、一人で興奮していましたっけ。

この子羊の血は、私たちのためです。血を流してくださった、子羊イエスのおかげで、私は生まれ変わっています。自分を悩ましていた、あらゆる性質がもう無いなんて、信じられますか?
でも現実に、すべて過ぎ去っていて、あんな(遠い目…)生き方をしようにも、もうできないのですよ。「おぇ〜」ってなるから(笑)ホントに。ははは!

私は聖書を覗き込みます。
私はどこから来たのか、私は何者なのか、私は今どこに生きているのか。
それが分かるたびに、なんだか目の奥が熱くなってしまう。

神ご自身が寝ずの番をしてくださった一晩。

聖書のみことばを眺めながら、ただ静かに、この心地良さに浸っていたい。

そんな過越の祭の始めの夜でした。



2014年3月31日月曜日

聞くに深く、語るに遅く…

一つの事柄でも、10人の人がいれば、10通りの見方や受け取り方があるみたい。

ある事を、
 楽しいことと取る人
 責任を感じる人
 人にも教えたいと思う人
 誰にも言っちゃいけないと思う人
 問題と感じる人
 嘘だと思う人
 知ってしまったことにプレッシャーに感じる人
 忘れちゃう人
 前代未聞と受け取る人
 よくある話と思う人 などなど~。

だから、できるだけ、色んな人の意見や、印象や見方を聞きたいと思う。

自分の見てることや感じてること、思ったことは、自分目線の一方向からの認識にすぎないと分かって来たのは、30代を過ぎてからかな。

20代の頃は、自分の見方がおおよそ正しいと思っていた。
「あれって、こういうことだよね。」「あの人、こう思ってるよね。絶対!」
女子には、こういった会話が多いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

でもその見立ては、意外に外れていることが多い…。
けど、自分は当たっていると思い続けているってことないでしょうか。

なぜって?
ふふふ。答えは簡単。「確認」しないからですよね。

実際、本人に確認もしないのに、調べもしないのに ”事実” を知っている気になっている。

これがね、「外れてた!」と知るときの、あの無様さったら、たまりません。
私は二度と、あの無様さを経験したくないです(ブルブル)

だから、仮説はたてますが、できるだけ事実の確認ができるよう、情報を集めるようにしています。
そして、複数の意見を聞きたいと願っています。

特に、自分と違う意見を聞くのは面白いです。
でも、どうやら私たち日本人の多くは、「違う意見」を受け入れるのが難しいみたい。

なんか、個人の「人格」を否定されたように感じてしまうのかな?
自分も、そんな心が萎縮するような感じがするときがあるので、分からなくないです。

日本では、「議論をする」という訓練がされていないせいではないかと思います。
「それは、なぜですか?」という一言で、恐れて萎縮してしまう人もいる。
話の聞き方、引出し方を工夫してあげる必要があるみたいです。

あと、自分と同じ意見でないと、すぐに「反対」意見。
大げさに言うと「敵」ってことになっちゃう傾向があるようにも思います。
これでは、人々の多様性から良いものを引き出すことはできません。

意見交換や議論の目的が何であるのか、分からなくなります。
人がコミュニティでいることの利点は、多数の目線から、いま出来る限りの「正解」に、「真理」に共に迫って行けることではないでしょうか。

多数の目線から、出来る限りの「客観的な事実」を得て、「真理」に迫る。
これが、健全な議論の目的なのだと私は思います。

各々の意見なんて、ただの情報にすぎないと思うのですがどうでしょう?
各々の持っている ” 意見、提案、事実認識 などなど = 情報 ” を交換しあって、お互いに視野を広げることが、健全な意見交換、議論の場だと思います。

家庭でも、友人とでも、会社でも、いろんなコミュニティでも。
それが、聖書のみことばの溢れる知恵によるものであったら、本当に最高です。

異なる意見、大歓迎!
聞かせてほしい。どうして、そう考えるのか。
あなたの見てることを私も見てみたい。

それは、「相手のことを理解する」ことでもあります。
たしかに、これはとても難しいことですワ。
でもこれこそ、人間関係を育むために、一番大切なことのように思うのです。

聞くに深く、語るに遅く…。
今、心がけている楽しみの一つです。


えっ?できてるかって(汗)?
いや〜、日々、再トライの繰り返しですぅ〜〜!!!



2014年3月21日金曜日

静かなのが好き

今日は、お家に一人でお留守番の日です。
いつもはにぎやかな我が家ですが、たまに一人で過ごす日も、それはそれで楽しい。

なぜって…、テレビを付けなくていいから。と〜っても静かなんだも〜〜ん。

うちの家族は、昔っからテレビっ子。
両親も、私たちが大人になってからは、何故かテレビっ子になってしまった。

そういえば、「テレビばっかり見てんじゃないの!」ってしつけられましたけどね。
期間限定だったのかしら???


はあ〜〜〜♫ とっても静か…(うっとり)

私は、一人でいる時は、ほとんどテレビを付けません。
車に乗っているときも、基本的にラジオや音楽は付けない方です。
無音で運転…。

あ、先日、友人を乗せて運転したときも、そういえば無音だったっけ…。
まあ、ずっとおしゃべりしてたから 良しとしよう〜:)

静寂に浸る…。無音のなかで、その静けさを聞いているような感じでしょうか。
静寂の中にいた方が、元気になれます。

早朝に目が覚めたとき、静寂に安息したくて、そのままお布団に座って目を閉じます。
耳を澄まして、思いのほか朝から元気な鳥たちの声や、かすかに感じる風の音を聞いていたりします。
多くの人々に知られることのない早朝。
そんな世界にも、確かにある豊かな営みに、自分も参加しているような気分になる。

逆に、そういった静かな時をもつことなく数日を過ごすことがあると、なんだか思考の中がざわざわするようで、モノがクリアに考えられなくなることに気付きます。

そんなときは、早めのお風呂にゆっくりつかり、そのままお部屋に引っ込んで、一息…。
温かいモノでも飲みながら、聖書を読んだり、御言葉やその情景を思いめぐらしていたりましす。

私の至福のひとときです。

詩篇 77篇 12節  
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。 



2014年3月16日日曜日

すでに、全ては備えられてた。

始めに虚無感に苛まれ始めてから、10年がたって、色んな道を通って今に至ってる。
なかなか感慨深い。
また、ルポの方で順に整理していこうと思っているけど、今思うことがありますよ。

「全ては良かった」って、神様が宣言したのは、7日間で世界を創造されたときでしたよね。
創世記1~2章に、私たち人間が生まれる前、始めの人”アダム”が生まれる前に、神様は私たちに必要な物を全~部!を用意されていた事が書いてあります。

私たちが胸の奥底から深~く安堵、安息して、井戸の水が溢れるように喜びが溢れ出て、すべてが最適にある場所。
人々と共に、いのちに豊かに溢れて生きる事の出来る神の園。
神のエデン(歓喜)の庭の中です!

でもね、アダムたちは蛇の言葉に乗っちゃった。
「神様はあんたらに隠してる事あるよ。この実を食べてみな。目が開かれて、いろいろ分かるようになるよ。まだまだ不足があるんだ。それを知りたくはないかい…?」
って、ことですよね。蛇が誘惑した内容ってさ。

それでアダムたちは、神様が食べたら死ぬって忠告してくれてた善悪の知識の実から食べてしまう。
そしてその結果、彼らは神様の忠告の通~りに、死に至るようになった。

彼らは、全てが完全だった神の大庭の外へ出なければならなくなりました。
神から引き離された者は、神の園にいられないんです。
彼らは損なわれた世界で生きることになってしまったんです。これが、今の私たちの世界。

「死」ってね、神から引き離されている結果です。
すべての供給が閉ざされて、自力で生きなくてはならない世界です。
私たち人間に、必ず「死」があり、「労苦」があるのは、神から離れてしまってるからなんですよ。

アダムたちと、その子孫が生きて行かなくてはならない場所は「死」に支配される世界。
何を成し遂げでも遂げなくても、どんだけいい人でも悪い人でも、最後は「死」によって、全ては無に帰しますね。
そんで諦めきれない人は、銅像をつくったり、作品などを残そうと色々考える訳ですが、ご本人は例外なく「死」まっしぐら~。
「死」に完全に閉じ込められちゃいます。だれか逃れた人いますかね?いませんね。さすがに。

二人は、もう号泣しながら出て行った事でしょうねぇ。
神様も、身悶えするような断腸の思いだったじゃないですか。
本当に辛かったんじゃないかと思うんです。


でもね。イエス様はついて行った。
彼らを追って。一人、彼らを追いかけていった。

エデン(歓喜)の園から、一つの川が出ていて、それが世界に流れ出る4つの大きな水の源でした。(創2:10)
これが、いのちの水。私たちの唯一の希望。メシア(救い主)です。

人はついに、とげのある柴に引っかかって、身動きとれない羊のようになった。
羊は、自分で自分の事が分からない動物なんす。
メ~メ~もがけばもがくほど、柴が絡まって、身動きとれなくなっちゃうのだ。
自分じゃ、自分を助けられない、気の毒な生き物。「羊さん」。
それ、私だったですわ。

そこへ、メシアが助けにきてくれました。


コレに絡まってた。自力じゃ出れんて。

私たちを追っかけて、ついて来たメシア(救い主)は、地上での歩みの最後に十字架の上で「完了した」という宣言をされました。福音書にありますね。(ヨハネ19:28-29)
始めであり、終わりであるお方が、「完了した」永遠に渡ってなされた宣言です。(黙21:6)

「完了した」ってね、どういうことだと思います?

「完了した」は、7日目に神様が創造の業を完了したのと同じですよ。
エデンの園から出ちゃった私たちの購い、神の意図された聖い者に完全回復させるために必要な手続きが、全て終わった。完全に完了!したってことです。
「あなたたち、神の子に戻っているよ!」ってこと。ふふふ。それ信じます?

じゃね、私たちは「今」どこにいるんでしょうね?
自分はどこにいるって、自覚していますか?

私は、驚いたんですけどね。
私は今、「神の庭」にいます。「神の大庭」の中ですよ!
「エデンの園」神の歓喜(エデン)の庭の中にいるんです!

マ・ジ・か~~~!!いつの間に…?
って、メシアが「完了した」って言ったその時からです。知らんかったケド!

世界は、死に支配された世界です。私の身体は、人生は、この死の世界にあります。
あの古い蛇は、この世界を壊そうと色々画策していますね。
最近のニュースみてると、ホントそう思う。

でもね。勝手にやってて。ははは!スゴイことよ。
私がいるのは、神の庭。神の懐の中にいるんです。

まだね、見えてないことも沢山~~ん、ありますサ。
でもね、パズルのピースを一つづつ発見しては、はめていっているみたいです。

聖書の言葉が分かるたびに、少しずつ絵が出来て行きますよ。
神の御顔が見えるようになってきました。
御顔が見えるようになるにつれて、自分自身がどんどん自由になっていきます。

私はすでにね、「神の意図された姿に回復されているぅ!?」って分かったのも大発見でした。
まあ、30数年…。損なわれた人として生きて来たから、いらん記憶が邪魔をしたりすることもありますけどね。
回復された人として生きることの楽しいレッスンの日々です。

今までは、まだ「ない」。まだ「だめ人」って思ってたもんだから、何とかしようと足掻いて、変なものを掴んだりしてたみたい。
でも、もうすでに「あった」んです。すでに「神の完全な新しい人」だったから、もう足掻く必要なかった~。
んん…?だれかが、だれかに騙されたときと、似てるような…???

今はね、静か~に、注意深~く、神のことばに照らして見分けながら、神の用意してくださってるものを受け取って行く毎日です。
それは、私が望んでいたモノよりも、ず~~~っと良いモノなので驚いています。

福音てね、コレだったんじゃないかと思うんですよね。
「神の園に戻っているよ!」「神の意図された姿になっているよ!」
コレだったんじゃないかいな。


御言葉を探求して生きる日々は、主と親しくなっていく日々です。

詩篇 84篇 2節
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。






2014年3月12日水曜日

ルポ③ 自分が消えた…!?アイデンティティの喪失

数日前から、引越し準備のために部屋を片付けて、荷造りを進めていました。

誇らしく最終日を迎えた、その翌朝。
燃えるゴミの日だったので、車でゴミ捨て場に向かいました。

"あ、一緒に仕事をしてた○○さんだ。眠そうな足どりだな〜(笑)私は、お休みよん♫(←!)こっち気づかないかな:)"
呑気な事を思いながら、更に進むと、正門が見えました。人々がセキュリティカードをかざして、入場して行きます。

そのセキュリティゲートをみた瞬間、ある思いが猛烈に襲ってきました。

自分はもうそこには入れない!ということ。
もう、あの日々は二度と帰ってこない!ということ。
みんな散りぢりとなって、もう一緒に仕事もできない。
自分の成果も、私自身をはなれ、私の名前だけをのせた報告書は社内に残る。でも結局は、すぐに古い技術として消えていく…!

自分は、何?自分は、どこにいるの??

喪失感、断絶感、疎外感、無力感、惨めさ、虚しさ、悔しさ、悲しさ、寂しさ…。
混乱する猶予も与えずに、大きな虚無感がブラックホールのように、自分の内に大きく口を開けたかのようでした。

私は、あまりにもその職場に自分の全存在、全価値観の軸足を置きすぎていたんですね。
大きな企業という、スティタス(協力会社なだけなのに〜)。
大きな企業の"人々"の中に、自分を見出そうとしていたこと。
本当に無知で、無防備だった。世間知らずで、幼稚やった…。


ん〜、でも思い返せば、自分のアイデンティティ(自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念 wiki )の喪失感を感じ(自覚?)始めたのは、大学卒業時。
就職活動の頃からだったかもしれないですね。

それまでは、保育園、小学校、高校、大学と進むのは当たり前で、進学すること自体が最優先。
何のために?何をするために?から、どこで何を学ぶかを選択するよう、問われることがなかった。自分もそういったことを考えたこともなかったです。
目先のテストや受験に追われて近視眼的に生きてたなあ。

大学3年の時に、就職活動を始めるわけですが、選択するための基準が全く自分中に無いのに焦りました。
どんな仕事、どんな会社がいいのか、全く分からなかったです。
「どんな仕事をしたいのか?」って考えるところ、「どんな仕事が"良い"のか?」って悩んでた。
それで、福利厚生のいいところとか調べてて、会社や職業の内容を考えることさえ出来なかったんですよ。怖いでしょ〜?

でも、なぜか私の時代、また周囲は、そういう感想な人って、とても多い。
だから、今からでもいいから、目的持ってちゃんと学びたいって人も、結構いるのは、まあまあ良いことですけどね。

学生時代、目的を持っていた人は、私たちとは違った雰囲気があって、変わり者として、あざ笑われる対象だった。

ああ、でも、そんなツケがこのような形で襲って来ようとは〜!

このアイデンティティの喪失の苦しみは、キリスト教会に集うようになって、より混乱する様になっていきました。

それは、人に頼らずに、自分自身で真理を求めて聖書を探求すること。
それが最低限の自分の責任だったんや…。

そう気付いて、取り組み始めるまで、ずっと続いたのです。


つづく〜




2014年3月9日日曜日

ルポ② はじめて教会に行くまで(2)

一緒に働くメンバー20名ほどのうち、半数以上が対象者でした。
15名ほどはいたかな。

当時は派遣契約であっても全員が配属先のプロパ(配属先の社員)よりも仕事をするって意欲モリモリ。
日曜出勤も取り合うような人々だったので、反動でま〜ったくやる気を失ってしまいました。
仕事中もぼ〜っとしてたり、期限なんかどうでもいいじゃん〜位に自暴自棄に!

いか〜〜ん!まだ、20代前半のメンバーがほとんどです。
この職場での経験を生かせば、結構良い所に就職もできるはず。
このまま最終日を迎えては、その後の日々に悪影響があるように思えました。
そこで、あるアイディアを思いつき、みんなに相談を持ちかけたのです。

当時、業務マニュアルを作成していました。
全員契約終了することを見越しての作成指示だったのだと分かり、失望と落胆で全く放置〜。
でも、この業務マニュアルをしっかり完成させてはどうかナ?と。

そしたら、”切られる”のにも関わらず、「残る人々に益となるものを完成させて、残してくれた。」と感謝されるでしょう。
何より、私たち自身が自尊心を満足させて、次の仕事へと向かっていけるじゃないですか!

若く、素直で、意欲的な彼らは、すぐに賛同!
その日から、元気と自尊心を取り戻し、顔を上げて、日々の仕事に取り組み始めました。また次の仕事を確保するために活動を開始した人もいました。
私自身も、他のアウトソーシング会社のスカウト合戦が始まっていたので、すぐに別の会社への就職が決まり、とりあえずは一安心。
最後の日に向けて、残りの仕事を全て終わらせようと、業務に取り組みました。

何度も何度も手直しして、3ヶ月後に業務マニュアルは完成。
私たちは誇らしい気持ちで提出することができました。

最終日。
部長はじめ部署の方々からも感謝され、私たちの自尊心は十分に満たされて大満足!
その頃には、みんな就職先も決まっていて、各々新しい日々へ向かって良いスタートをきる準備が、しっかりと整っていました。

私 一人をのぞいては。

その翌朝、全てが一変することになるとは、思いもしませんでした。


ルポ① はじめて教会に行くまで(1)

私が始めに教会に行き、聖書を知ったのは、もう10年くらい前になります。
おそらく私のそれまでの日々は、ごくごく普通の家庭、普通の学生生活で、悩みはあれど、まあまあ幸せなほうだったのだろうと思います。

当時、私はアウトソーシング企業から派遣契約で、大手の自動車会社で勤務していました。
ところが、親会社の不祥事によって、私たち多くあった子会社の全てが、常駐先の自動車会社との基本契約を解除される事になってしまったのです。
1000人近くが勤続停止しなければならない事態となりました。

私自身も、この出来事に大ショ~~~ック!
当時の私は、アウトソーシングの良い面しか見ていなくて、世間知らずでした。
ずっと、この職場で皆さんと働けると思い込んでいましたし、それだけの人間関係を無防備に築いていました。また自分なりに仕事の目標もあったのです。
それが、自分の不手際などでなく、会社間の事情だけで全て無となるって現実に物凄く当惑していました。
まあ、今となれば、ただ単にアウトソーシングの社会の中での役割や仕組みを分かっていないだけなんですけどね(苦笑)無知な私には、その職場にいられなくなるということが、全く持って大ショックでした。

その説明会では、怒号飛び交う尋常でない事態でした。
当時まだ20代の私はすぐに仕事も見つけられますが、家庭を持ったお父さん方の不安は大きい!
半年は、同系列の企業には就職はおろか、派遣などでの勤務も全てできないという噂がありました。
それを裏付けるように、会社から告げられる次の常駐先はここ愛知県ではなく、広島とか東北の方ばかり。みんな怒りと不安で大混乱。
半年前に、古株の営業所長が次々と退社していて(彼らは知ってたんですね〜)、3ヶ月前に配属されたばかりの20代の営業所長は、青白い顔で「配属先はあります!ありますっ!」と必至で社員をとどめようとしていました。

私はといえば、一緒に親しく仕事をしてきた他企業の方が以前、就職を誘ってくれていた事もあったので、こっそり相談したところ「今回の件について、知っている事を話すのも、また関係者と接触するのも禁じられている」と足早に去って行かれ、その後、避けられるようになってしまいました。

また当時お付き合いしていた方も、この事態と前後して、「3年以内に昇格」することが告げられたのですが、そうなると立場が変わるため、もうしばらくで付き合いを止めたいと告げられてしまいました。なんだ、”もうしばらく”って!!?

これにも、まだ若かった私はまたまた大ショッ~~~~ク!!!
その人にとっては、私との付き合いは、自分の会社の立場よりも軽いものだったワケです。

悩みが多い付き合いでしたが、当時メンタルが脆弱な自分を受け止めてくれる重要な存在のように思っていたのです。相手のその冷酷なまでの理性的な判断に、まさに冷水を浴びせられたかのように血の気がひき、心も身体も冷え上がりました。(思い出すだけでもブルブル)

その瞬間から、自分の何かが崩れ始めたように感じたのを覚えています。
自分が、無価値な人間に思えました。


2014年2月26日水曜日

主の牧場の心地良さを学ぶ

だいぶ、温かくなってきました。
梅も、つぼみがふっくら膨らんで、早いものはもう綺麗に咲いています(^0^)


ソシンロウバイ ですって

早いもので、もう2月も終わりです。
平凡も沢山、遊びも沢山、事件も沢山、新しい出会いもありで、めまぐるしい!
でも、とても楽しい日々です。
どれだけ平凡でも、与えられた日々を充実して生きる事ができるのは幸いなことですね。

私は9年間、生活も娯楽も仕事も悩みもキリスト教会のコミュニティ中心だったので、去年の11月にそこを離れることに決めた時は、正直、心細く思いました。
「教会を第一に」ってことが、聖書の約束の内にとどまる条件のような思想が頭に浸透していたので、なんだか身元保証がなくなるような、保護が無くなるような心もとなさや怖さを感じていたのですよ。

でも4ヶ月近くが経ち、それは不要な心配だったと安堵しています。
それもそのはず、私の身元保証も保護も主ご自身だったのですよ(-_^)b

主が、第一にするように求めているのは、「”キリスト教会”」ではなく、「家族と生活」。
救いも家族単位です(使途16:31)

私の軸足が、御言葉のとおり「家族」の中心に置かれるようになってから、家族の中での私の地位が著しく向上してしまい、自分でも驚いています。
確かに自分自身、以前と違って、家の中で落ち着きがあります。
家族や親族の中にある課題への対応も、まとめ役としての働きを担う事になってきました。

それは、家族と過ごす時間が多くなったからとか、キリスト教でよく言う「神様より家族を選んだ」ということではないのですよ。

家族の中で、神のことばが事実、生きた知恵であることが証明されているからです!

この1月から、ある課題への対応の舵取り役をしています。
今回の課題は、親族15名ほどを巻込む、ちょっとした お・お・ご・と(^^;)

舵取り役として、皆が感情的にならないよう、また健全な解決への進めるよう、生きた知恵が必要です。
でもその知恵は、結局 全て聖書の言葉からもたらされました。
私たち家族は、聖書の正しい価値観が、課題の前向きな解決と渦中にいる人を自由にするという結果を目撃しました!

聖書の言葉は、ただの文字ではないです。
聖書の言葉は、生きた神の息吹。
聖書の言葉は、神の知恵、知恵の中の知恵。KING OF 知恵!!!

真理が人々を自由にするという事実を家族の中で見ることになろうとは。
今ひと月が経って対応に一段落つき、静観していますが、心中とても驚いています。

また、分かったことがあります。
家族の中で、自分の存在と必要性が明確になってくるというのは、人間にとって、また人生において、とても重要なことのようです。
それは、人の生きている理由に励ましを与えてくれるものです。
それを思うとき、私は自分の本当の居場所、主の牧場で憩う心地良さを味わっているかのようです。

この日常の中で、神のことば、神の教えが真実だと知るとき、私は主の御顔を垣間見ているのではないでしょうか???
どうも、そうとしか思えないんですよね…。

私の、主を知る探求の日々は、まだまだ続きます〜。


2014年2月14日金曜日

心、精神、力を尽くしてって?


楽しい楽し~~い♫ 聖書を研究する時間は、私のワクワク冒険の時間でもあります。
今日は、この御言葉を調べてみました。
申命記 6:5 
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
おなじみの聖句ではないでしょうか?私も、とても大切にしている御言葉です(^^)

でも、そういえば…。
具体的に「心」と「精神」って、似てるけどどう違うの?「力」とは?実際どういう意味を神は言っておられるのでしょう?

もとは、ヘブライ語、ヘブライ文化の中で使われていた言葉です。

私たち日本人の連想するイメージで捉えると、意味が違ってしまう事もありますから、一つの言葉であっても、私は主に忠実にありたいです。だって、そこからいのちの泉が沸くんだも〜〜ん♫

主の意図した意味を正しく知りたいのですよネ~。うふふふふ〜(^^*)♡

さて、調べてみました!るんるん!

英語にまだ慣れないのと、私チョイスの抜粋ですので、そこの所あしからず〜〜(^^)


原語で聖書検索 http://gengodekensaku.com/


【心】 03824 lebab
     bethink    思いつく、思い出す熟考する
     Brest     乳房
     Comfortably  心地良く、快適
     Courage   勇気、度胸、苦痛に耐える精神力
     understanding  ~に関する知識、理解

【精神】05315 nephesh

     breath   息をする、呼吸をする
     vitality   元気、活気、生気、生命力
     appetite  食欲
    05314 naphash
     refreshed    爽快な気分
     refresh selves 自分、性格、性質元気回復、気分一新

【力】 03966 m'od
     vehemeuce  激しさ、激烈、情熱、熱心
     wholly    完全に、全面的に、すっかり
     speedily   敏速に、早く
     dixtuigeutly  勤勉に、こつこつと、一生懸命

おお、面白い〜〜〜!ひゃっほ〜〜〜!!
ピンクの箇所が、ポピーが意外に感じた単語です。

「心」は熟考するとか知識とかから、”思索すること” とか、”考えること” のようですね。
しかも、心地良く?!熟考することは、楽しい経験?
乳房…、これはどういう意味でしょう?生まれたての赤ちゃんの食事の全て…。
完全な栄養、完全な食物ですよね。いのちに関わる供給源…。それを、思索して見つけるよう促されているような…。

「精神」ネフィッシュでたー!これだったのか、ネフィッシュ…。
聞いてはいましたが、自分で発見したのは、初めてです。

単語の意味だけでは聖書を学ぶには足りなくて、いわゆるヘブライ的な思想も合わせて、相互に意味を捉えていく必要があるようです。

(でも、まあ当たり前ですか。大辞林だけで、言葉の意味や思想が外国人の方に分からないですよ。私も分からんし。)

さて、ヘブライ的には、ネフィッシュは、「心・魂・霊・身体すべて丸ごとで一つ」という意味だと読みました。それぞれを分けないとのこと。
今回の聖句の「心」「精神」「力」も一つのことを言っていると思います。
「目、鼻、口で、三部一顔!」とか言いませんから。ははは!
全部合わせて「顔」そんな感じでしょうか。

さて、息をする…。
これは、アダムを創造されたとき、神様が鼻から息を吹き込んでいのちを与えました。
その息を連想しますねぇ。いのちの息ですよね。活気、生命力は、何となく分かるような。

ここに「食欲」が出てきたのがちょっと面白いです。リアル~な身体活動、食事、食事、食事…。
神のことば、いのちのパン、食欲…。食べたい、いのちのパン。食欲…。ん~~(-_-)(思考中)

あと、関連の単語として、「気分爽快!」また、「自分自身の性質や性格を一新!」
ほほう…!これは、ローマ12:2を連想しますね。そうか、一新していくのか…。

「力」、これは激しい〜〜!すごい激しさですよ。そばにいたら、ビックリしちゃうほど?
自分の全部を丸ごとで取り組む。のめり込むって感じですか。
それも、敏速にすばやいく。のたのた、のろのろではない、きびきび、鋭敏。
また、勤勉にコツコツですって!
「力」は、実際的な行動の表現のようですね。

・・・・・・・・・

あ〜面白かった〜♫
この3つの言葉の意味を一つにしたものによって、主を愛するように教えてくださってたんですね。
私は自分自身、「愛する」っていうことを「思い」や「感情的」なものだけのように思っていたんだと気付きました。

でも、主の求めている事は、実際の「行動」も一緒に…、のようですね。

 実際的に、具体的に神のことばを思索し、考えること、知識として求めることのよう。
 それは、激しく!すばやく!自分のすべてを持ってのめり込み、熱意、情熱ほどばしる!
 それを地道にコツコツ、怠らず、勤勉にしていること
 それは、自分自身を作り変え
 とっても心地良くて、楽しくて、もぉ気分爽快ー!!なことのようです。おほほ♡

あまり、言葉にまとめると、思索が制限されそうなので、この辺で。
さらに御言葉を思い巡らして、主の意図することを、もっともっと教えていただきたいです(^^)

それにしても、私の本来の姿ですよね。
この言葉が教えてくれていることは。

私たちは、元はそのような者にデザインされ創造されているんですね。
それほどに、神を愛するのが、本来の人間の姿、喜びの源なのですね。

だから、こんなに御言葉と交わるのは楽しいのですか。ホントたまらんワ♡


ではでは!