2014年3月31日月曜日

聞くに深く、語るに遅く…

一つの事柄でも、10人の人がいれば、10通りの見方や受け取り方があるみたい。

ある事を、
 楽しいことと取る人
 責任を感じる人
 人にも教えたいと思う人
 誰にも言っちゃいけないと思う人
 問題と感じる人
 嘘だと思う人
 知ってしまったことにプレッシャーに感じる人
 忘れちゃう人
 前代未聞と受け取る人
 よくある話と思う人 などなど~。

だから、できるだけ、色んな人の意見や、印象や見方を聞きたいと思う。

自分の見てることや感じてること、思ったことは、自分目線の一方向からの認識にすぎないと分かって来たのは、30代を過ぎてからかな。

20代の頃は、自分の見方がおおよそ正しいと思っていた。
「あれって、こういうことだよね。」「あの人、こう思ってるよね。絶対!」
女子には、こういった会話が多いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

でもその見立ては、意外に外れていることが多い…。
けど、自分は当たっていると思い続けているってことないでしょうか。

なぜって?
ふふふ。答えは簡単。「確認」しないからですよね。

実際、本人に確認もしないのに、調べもしないのに ”事実” を知っている気になっている。

これがね、「外れてた!」と知るときの、あの無様さったら、たまりません。
私は二度と、あの無様さを経験したくないです(ブルブル)

だから、仮説はたてますが、できるだけ事実の確認ができるよう、情報を集めるようにしています。
そして、複数の意見を聞きたいと願っています。

特に、自分と違う意見を聞くのは面白いです。
でも、どうやら私たち日本人の多くは、「違う意見」を受け入れるのが難しいみたい。

なんか、個人の「人格」を否定されたように感じてしまうのかな?
自分も、そんな心が萎縮するような感じがするときがあるので、分からなくないです。

日本では、「議論をする」という訓練がされていないせいではないかと思います。
「それは、なぜですか?」という一言で、恐れて萎縮してしまう人もいる。
話の聞き方、引出し方を工夫してあげる必要があるみたいです。

あと、自分と同じ意見でないと、すぐに「反対」意見。
大げさに言うと「敵」ってことになっちゃう傾向があるようにも思います。
これでは、人々の多様性から良いものを引き出すことはできません。

意見交換や議論の目的が何であるのか、分からなくなります。
人がコミュニティでいることの利点は、多数の目線から、いま出来る限りの「正解」に、「真理」に共に迫って行けることではないでしょうか。

多数の目線から、出来る限りの「客観的な事実」を得て、「真理」に迫る。
これが、健全な議論の目的なのだと私は思います。

各々の意見なんて、ただの情報にすぎないと思うのですがどうでしょう?
各々の持っている ” 意見、提案、事実認識 などなど = 情報 ” を交換しあって、お互いに視野を広げることが、健全な意見交換、議論の場だと思います。

家庭でも、友人とでも、会社でも、いろんなコミュニティでも。
それが、聖書のみことばの溢れる知恵によるものであったら、本当に最高です。

異なる意見、大歓迎!
聞かせてほしい。どうして、そう考えるのか。
あなたの見てることを私も見てみたい。

それは、「相手のことを理解する」ことでもあります。
たしかに、これはとても難しいことですワ。
でもこれこそ、人間関係を育むために、一番大切なことのように思うのです。

聞くに深く、語るに遅く…。
今、心がけている楽しみの一つです。


えっ?できてるかって(汗)?
いや〜、日々、再トライの繰り返しですぅ〜〜!!!



2014年3月21日金曜日

静かなのが好き

今日は、お家に一人でお留守番の日です。
いつもはにぎやかな我が家ですが、たまに一人で過ごす日も、それはそれで楽しい。

なぜって…、テレビを付けなくていいから。と〜っても静かなんだも〜〜ん。

うちの家族は、昔っからテレビっ子。
両親も、私たちが大人になってからは、何故かテレビっ子になってしまった。

そういえば、「テレビばっかり見てんじゃないの!」ってしつけられましたけどね。
期間限定だったのかしら???


はあ〜〜〜♫ とっても静か…(うっとり)

私は、一人でいる時は、ほとんどテレビを付けません。
車に乗っているときも、基本的にラジオや音楽は付けない方です。
無音で運転…。

あ、先日、友人を乗せて運転したときも、そういえば無音だったっけ…。
まあ、ずっとおしゃべりしてたから 良しとしよう〜:)

静寂に浸る…。無音のなかで、その静けさを聞いているような感じでしょうか。
静寂の中にいた方が、元気になれます。

早朝に目が覚めたとき、静寂に安息したくて、そのままお布団に座って目を閉じます。
耳を澄まして、思いのほか朝から元気な鳥たちの声や、かすかに感じる風の音を聞いていたりします。
多くの人々に知られることのない早朝。
そんな世界にも、確かにある豊かな営みに、自分も参加しているような気分になる。

逆に、そういった静かな時をもつことなく数日を過ごすことがあると、なんだか思考の中がざわざわするようで、モノがクリアに考えられなくなることに気付きます。

そんなときは、早めのお風呂にゆっくりつかり、そのままお部屋に引っ込んで、一息…。
温かいモノでも飲みながら、聖書を読んだり、御言葉やその情景を思いめぐらしていたりましす。

私の至福のひとときです。

詩篇 77篇 12節  
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。 



2014年3月16日日曜日

すでに、全ては備えられてた。

始めに虚無感に苛まれ始めてから、10年がたって、色んな道を通って今に至ってる。
なかなか感慨深い。
また、ルポの方で順に整理していこうと思っているけど、今思うことがありますよ。

「全ては良かった」って、神様が宣言したのは、7日間で世界を創造されたときでしたよね。
創世記1~2章に、私たち人間が生まれる前、始めの人”アダム”が生まれる前に、神様は私たちに必要な物を全~部!を用意されていた事が書いてあります。

私たちが胸の奥底から深~く安堵、安息して、井戸の水が溢れるように喜びが溢れ出て、すべてが最適にある場所。
人々と共に、いのちに豊かに溢れて生きる事の出来る神の園。
神のエデン(歓喜)の庭の中です!

でもね、アダムたちは蛇の言葉に乗っちゃった。
「神様はあんたらに隠してる事あるよ。この実を食べてみな。目が開かれて、いろいろ分かるようになるよ。まだまだ不足があるんだ。それを知りたくはないかい…?」
って、ことですよね。蛇が誘惑した内容ってさ。

それでアダムたちは、神様が食べたら死ぬって忠告してくれてた善悪の知識の実から食べてしまう。
そしてその結果、彼らは神様の忠告の通~りに、死に至るようになった。

彼らは、全てが完全だった神の大庭の外へ出なければならなくなりました。
神から引き離された者は、神の園にいられないんです。
彼らは損なわれた世界で生きることになってしまったんです。これが、今の私たちの世界。

「死」ってね、神から引き離されている結果です。
すべての供給が閉ざされて、自力で生きなくてはならない世界です。
私たち人間に、必ず「死」があり、「労苦」があるのは、神から離れてしまってるからなんですよ。

アダムたちと、その子孫が生きて行かなくてはならない場所は「死」に支配される世界。
何を成し遂げでも遂げなくても、どんだけいい人でも悪い人でも、最後は「死」によって、全ては無に帰しますね。
そんで諦めきれない人は、銅像をつくったり、作品などを残そうと色々考える訳ですが、ご本人は例外なく「死」まっしぐら~。
「死」に完全に閉じ込められちゃいます。だれか逃れた人いますかね?いませんね。さすがに。

二人は、もう号泣しながら出て行った事でしょうねぇ。
神様も、身悶えするような断腸の思いだったじゃないですか。
本当に辛かったんじゃないかと思うんです。


でもね。イエス様はついて行った。
彼らを追って。一人、彼らを追いかけていった。

エデン(歓喜)の園から、一つの川が出ていて、それが世界に流れ出る4つの大きな水の源でした。(創2:10)
これが、いのちの水。私たちの唯一の希望。メシア(救い主)です。

人はついに、とげのある柴に引っかかって、身動きとれない羊のようになった。
羊は、自分で自分の事が分からない動物なんす。
メ~メ~もがけばもがくほど、柴が絡まって、身動きとれなくなっちゃうのだ。
自分じゃ、自分を助けられない、気の毒な生き物。「羊さん」。
それ、私だったですわ。

そこへ、メシアが助けにきてくれました。


コレに絡まってた。自力じゃ出れんて。

私たちを追っかけて、ついて来たメシア(救い主)は、地上での歩みの最後に十字架の上で「完了した」という宣言をされました。福音書にありますね。(ヨハネ19:28-29)
始めであり、終わりであるお方が、「完了した」永遠に渡ってなされた宣言です。(黙21:6)

「完了した」ってね、どういうことだと思います?

「完了した」は、7日目に神様が創造の業を完了したのと同じですよ。
エデンの園から出ちゃった私たちの購い、神の意図された聖い者に完全回復させるために必要な手続きが、全て終わった。完全に完了!したってことです。
「あなたたち、神の子に戻っているよ!」ってこと。ふふふ。それ信じます?

じゃね、私たちは「今」どこにいるんでしょうね?
自分はどこにいるって、自覚していますか?

私は、驚いたんですけどね。
私は今、「神の庭」にいます。「神の大庭」の中ですよ!
「エデンの園」神の歓喜(エデン)の庭の中にいるんです!

マ・ジ・か~~~!!いつの間に…?
って、メシアが「完了した」って言ったその時からです。知らんかったケド!

世界は、死に支配された世界です。私の身体は、人生は、この死の世界にあります。
あの古い蛇は、この世界を壊そうと色々画策していますね。
最近のニュースみてると、ホントそう思う。

でもね。勝手にやってて。ははは!スゴイことよ。
私がいるのは、神の庭。神の懐の中にいるんです。

まだね、見えてないことも沢山~~ん、ありますサ。
でもね、パズルのピースを一つづつ発見しては、はめていっているみたいです。

聖書の言葉が分かるたびに、少しずつ絵が出来て行きますよ。
神の御顔が見えるようになってきました。
御顔が見えるようになるにつれて、自分自身がどんどん自由になっていきます。

私はすでにね、「神の意図された姿に回復されているぅ!?」って分かったのも大発見でした。
まあ、30数年…。損なわれた人として生きて来たから、いらん記憶が邪魔をしたりすることもありますけどね。
回復された人として生きることの楽しいレッスンの日々です。

今までは、まだ「ない」。まだ「だめ人」って思ってたもんだから、何とかしようと足掻いて、変なものを掴んだりしてたみたい。
でも、もうすでに「あった」んです。すでに「神の完全な新しい人」だったから、もう足掻く必要なかった~。
んん…?だれかが、だれかに騙されたときと、似てるような…???

今はね、静か~に、注意深~く、神のことばに照らして見分けながら、神の用意してくださってるものを受け取って行く毎日です。
それは、私が望んでいたモノよりも、ず~~~っと良いモノなので驚いています。

福音てね、コレだったんじゃないかと思うんですよね。
「神の園に戻っているよ!」「神の意図された姿になっているよ!」
コレだったんじゃないかいな。


御言葉を探求して生きる日々は、主と親しくなっていく日々です。

詩篇 84篇 2節
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。






2014年3月12日水曜日

ルポ③ 自分が消えた…!?アイデンティティの喪失

数日前から、引越し準備のために部屋を片付けて、荷造りを進めていました。

誇らしく最終日を迎えた、その翌朝。
燃えるゴミの日だったので、車でゴミ捨て場に向かいました。

"あ、一緒に仕事をしてた○○さんだ。眠そうな足どりだな〜(笑)私は、お休みよん♫(←!)こっち気づかないかな:)"
呑気な事を思いながら、更に進むと、正門が見えました。人々がセキュリティカードをかざして、入場して行きます。

そのセキュリティゲートをみた瞬間、ある思いが猛烈に襲ってきました。

自分はもうそこには入れない!ということ。
もう、あの日々は二度と帰ってこない!ということ。
みんな散りぢりとなって、もう一緒に仕事もできない。
自分の成果も、私自身をはなれ、私の名前だけをのせた報告書は社内に残る。でも結局は、すぐに古い技術として消えていく…!

自分は、何?自分は、どこにいるの??

喪失感、断絶感、疎外感、無力感、惨めさ、虚しさ、悔しさ、悲しさ、寂しさ…。
混乱する猶予も与えずに、大きな虚無感がブラックホールのように、自分の内に大きく口を開けたかのようでした。

私は、あまりにもその職場に自分の全存在、全価値観の軸足を置きすぎていたんですね。
大きな企業という、スティタス(協力会社なだけなのに〜)。
大きな企業の"人々"の中に、自分を見出そうとしていたこと。
本当に無知で、無防備だった。世間知らずで、幼稚やった…。


ん〜、でも思い返せば、自分のアイデンティティ(自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念 wiki )の喪失感を感じ(自覚?)始めたのは、大学卒業時。
就職活動の頃からだったかもしれないですね。

それまでは、保育園、小学校、高校、大学と進むのは当たり前で、進学すること自体が最優先。
何のために?何をするために?から、どこで何を学ぶかを選択するよう、問われることがなかった。自分もそういったことを考えたこともなかったです。
目先のテストや受験に追われて近視眼的に生きてたなあ。

大学3年の時に、就職活動を始めるわけですが、選択するための基準が全く自分中に無いのに焦りました。
どんな仕事、どんな会社がいいのか、全く分からなかったです。
「どんな仕事をしたいのか?」って考えるところ、「どんな仕事が"良い"のか?」って悩んでた。
それで、福利厚生のいいところとか調べてて、会社や職業の内容を考えることさえ出来なかったんですよ。怖いでしょ〜?

でも、なぜか私の時代、また周囲は、そういう感想な人って、とても多い。
だから、今からでもいいから、目的持ってちゃんと学びたいって人も、結構いるのは、まあまあ良いことですけどね。

学生時代、目的を持っていた人は、私たちとは違った雰囲気があって、変わり者として、あざ笑われる対象だった。

ああ、でも、そんなツケがこのような形で襲って来ようとは〜!

このアイデンティティの喪失の苦しみは、キリスト教会に集うようになって、より混乱する様になっていきました。

それは、人に頼らずに、自分自身で真理を求めて聖書を探求すること。
それが最低限の自分の責任だったんや…。

そう気付いて、取り組み始めるまで、ずっと続いたのです。


つづく〜




2014年3月9日日曜日

ルポ② はじめて教会に行くまで(2)

一緒に働くメンバー20名ほどのうち、半数以上が対象者でした。
15名ほどはいたかな。

当時は派遣契約であっても全員が配属先のプロパ(配属先の社員)よりも仕事をするって意欲モリモリ。
日曜出勤も取り合うような人々だったので、反動でま〜ったくやる気を失ってしまいました。
仕事中もぼ〜っとしてたり、期限なんかどうでもいいじゃん〜位に自暴自棄に!

いか〜〜ん!まだ、20代前半のメンバーがほとんどです。
この職場での経験を生かせば、結構良い所に就職もできるはず。
このまま最終日を迎えては、その後の日々に悪影響があるように思えました。
そこで、あるアイディアを思いつき、みんなに相談を持ちかけたのです。

当時、業務マニュアルを作成していました。
全員契約終了することを見越しての作成指示だったのだと分かり、失望と落胆で全く放置〜。
でも、この業務マニュアルをしっかり完成させてはどうかナ?と。

そしたら、”切られる”のにも関わらず、「残る人々に益となるものを完成させて、残してくれた。」と感謝されるでしょう。
何より、私たち自身が自尊心を満足させて、次の仕事へと向かっていけるじゃないですか!

若く、素直で、意欲的な彼らは、すぐに賛同!
その日から、元気と自尊心を取り戻し、顔を上げて、日々の仕事に取り組み始めました。また次の仕事を確保するために活動を開始した人もいました。
私自身も、他のアウトソーシング会社のスカウト合戦が始まっていたので、すぐに別の会社への就職が決まり、とりあえずは一安心。
最後の日に向けて、残りの仕事を全て終わらせようと、業務に取り組みました。

何度も何度も手直しして、3ヶ月後に業務マニュアルは完成。
私たちは誇らしい気持ちで提出することができました。

最終日。
部長はじめ部署の方々からも感謝され、私たちの自尊心は十分に満たされて大満足!
その頃には、みんな就職先も決まっていて、各々新しい日々へ向かって良いスタートをきる準備が、しっかりと整っていました。

私 一人をのぞいては。

その翌朝、全てが一変することになるとは、思いもしませんでした。


ルポ① はじめて教会に行くまで(1)

私が始めに教会に行き、聖書を知ったのは、もう10年くらい前になります。
おそらく私のそれまでの日々は、ごくごく普通の家庭、普通の学生生活で、悩みはあれど、まあまあ幸せなほうだったのだろうと思います。

当時、私はアウトソーシング企業から派遣契約で、大手の自動車会社で勤務していました。
ところが、親会社の不祥事によって、私たち多くあった子会社の全てが、常駐先の自動車会社との基本契約を解除される事になってしまったのです。
1000人近くが勤続停止しなければならない事態となりました。

私自身も、この出来事に大ショ~~~ック!
当時の私は、アウトソーシングの良い面しか見ていなくて、世間知らずでした。
ずっと、この職場で皆さんと働けると思い込んでいましたし、それだけの人間関係を無防備に築いていました。また自分なりに仕事の目標もあったのです。
それが、自分の不手際などでなく、会社間の事情だけで全て無となるって現実に物凄く当惑していました。
まあ、今となれば、ただ単にアウトソーシングの社会の中での役割や仕組みを分かっていないだけなんですけどね(苦笑)無知な私には、その職場にいられなくなるということが、全く持って大ショックでした。

その説明会では、怒号飛び交う尋常でない事態でした。
当時まだ20代の私はすぐに仕事も見つけられますが、家庭を持ったお父さん方の不安は大きい!
半年は、同系列の企業には就職はおろか、派遣などでの勤務も全てできないという噂がありました。
それを裏付けるように、会社から告げられる次の常駐先はここ愛知県ではなく、広島とか東北の方ばかり。みんな怒りと不安で大混乱。
半年前に、古株の営業所長が次々と退社していて(彼らは知ってたんですね〜)、3ヶ月前に配属されたばかりの20代の営業所長は、青白い顔で「配属先はあります!ありますっ!」と必至で社員をとどめようとしていました。

私はといえば、一緒に親しく仕事をしてきた他企業の方が以前、就職を誘ってくれていた事もあったので、こっそり相談したところ「今回の件について、知っている事を話すのも、また関係者と接触するのも禁じられている」と足早に去って行かれ、その後、避けられるようになってしまいました。

また当時お付き合いしていた方も、この事態と前後して、「3年以内に昇格」することが告げられたのですが、そうなると立場が変わるため、もうしばらくで付き合いを止めたいと告げられてしまいました。なんだ、”もうしばらく”って!!?

これにも、まだ若かった私はまたまた大ショッ~~~~ク!!!
その人にとっては、私との付き合いは、自分の会社の立場よりも軽いものだったワケです。

悩みが多い付き合いでしたが、当時メンタルが脆弱な自分を受け止めてくれる重要な存在のように思っていたのです。相手のその冷酷なまでの理性的な判断に、まさに冷水を浴びせられたかのように血の気がひき、心も身体も冷え上がりました。(思い出すだけでもブルブル)

その瞬間から、自分の何かが崩れ始めたように感じたのを覚えています。
自分が、無価値な人間に思えました。