2013年5月26日日曜日

Growth of a mustard Seed



このブログのタイトルです。「からし種の成長」
(英語が得意ではないので、これで合ってるか、ちょっと自信ないですが)

これは聖書のみことばから頂きました。

マタイ17章20節
…もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

わたしの内には、イエスから与えられた信仰の種があります。それは、からしの種(ほんの1mmくらい)ほどの小さなもの。でも、小さくても混じりけのない信仰です。
この信仰があれば、私たちには、” できないことはなにもない ”と、イエスご自身が教えてくださいました。

イエスを救い主と信じた瞬間からの歩みは、今までの自分の努力による生き方とは全く異質のものとなります。好みも変わるし、求めるものも、人生に望んでいることも変わっていきます。
でも、そういった変化があることを知らずにいると、相変わらず今まで好みや、経験で得てきた生き方に固執してしまい、本当に葛藤するし、苦しみます。

あ〜、ホントウに私がそうでした。いまでも、「あ、また!古い生き方をしてる。イエス様によって生きてるんだった。」と気づいて、新しい生き方に戻ることもしばしばです。

イエスが教えてくれている、新しい生き方というのはコレです。

マルコ4章26節
…「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、27夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。28地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。29実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです

信仰によって実を実らせるには、内にある信仰の種の成長が必要です。その種を成長させる事を自分の努力、計画、行動でしようとするのが、古い生き方。

種は、自分で体を伸ばしたり、成長を早めたりして頑張っていませんもんね。
それと同じで、私たちの内にある信仰の種が、今この瞬間も神様によって成長させてもらってる…。と、神様に『信頼』していることが大切だと分かりました。神様にお任せして、自分で足掻かない!

そして、好みが変わっていくのを安息の内に受け取っていきます。いえ、それは「古い好み」とイエスによる「新しい好み」とを交換していくという感じでしょうか。

私たちの側でおこなう、唯一の努力といえば、信頼し続けるということだけのようです。
それはとてもワクワクする、希望の伴うものだと、今は実感しています。



ブログ はじます

みなさま、はじめまして!

今まで、興味ありながら、つまみ食いだけしてたブログを始める事にしました。

私は、いまから8年前、意識することもなく持っていた人生の価値観が、砂の一粒も残らないほどに完全に崩れ、消し飛んでしまったことがありました。
途方にくれて、生きる事も諦めたとき、聖書にあるイエス・キリストを知る事となりました。

でも残念なことに、始めの3〜4年は「教会」というコミュニティや人(牧師、リーダー、兄弟姉妹)に頼りきり。イエスご本人のことも、聖書に何が書かれているのかも分かっていない『まねっこクリスチャン』でした。
正直になるなら…、どれだけ教会に通っても、聖書を一年に一度は通読しても、その日々は聖書によって知らされた、キリストによる「自由」や「喜び」とは縁遠いものでした。束縛と足掻きの苦しい生活(クルシチャンってやつです)であったと言わざる得ません。

ところが数年後、その「教会」や「人」に、完全はないのだと思い知るときがきました。

ついに、自分自身でイエスを求めて聖書を探求しはじめてから、それまでの束縛や苦しみは消えていき、イエスのいのちを少しずつ、知るようになってきたのです。

その分、いままで教会で教えられていた事や、世間にある「常識」のようなものが、なんだかオカシイ…と、思うようにもなりました。

これはなかなか、分かち合いがし難いものでした。
場合によっては非難に聞こえてしまう方もいるからです。

でも、キリストによって与えられた、喜ばしい日々を話さずにいることはできません。

それで、このブログをはじめることにしました。


《このブログの目的》
・キリストと共に生きる歩みを、みなさんに分かち合う。
・ひとりでも多くの人がキリストと出会う、きっかけの一つとなりたい。

《ブログを活用する目的》
・日々の中でうまれる思考を文章にして、具体的に眺めてみたい。
・人々に理解してもらえるような、分かりやすく表現できるようになりたい。
・みなさんの意見を聞き、独善的ではなく「真実」を見極めたい。

《注意したいこと》
・問題提起は批判的視点からであっても、あるべき姿を忘れず、建設的でありたい。
・問題に関して、自分の取るべき態度や責任を忘れないようにしたい。


おっかなビックリですが、なんでもまずはチャレンジということで!

どうぞ、よろしくお願いします(^0^)/