2013年10月23日水曜日

『11月 モリエル名古屋セミナー』のお知らせ♫

みなさん、こんにちは(^^)
11月に、モリエルミニストリーズの名古屋セミナーが開催されますので、お知らせします!

こちらは、ポピー オススメの聖書の勉強会です(^^)
ホピーは、聖書を読み取るために「ヘブライ的世界観」を知る事がとても重要だと思っています。慣用句や数字、名前、土地などについて、ヘブライ民族では普通に理解されていた事が、私たちには分かりません。

私たちは、
「7」を見ると、「ラッキーセブン☆」
「4」は、「死」を連想して縁起が悪いとか言いますよね。

そういった日本文化に浸透している意味が全世界共通でないことは、誰でも知っています。聖書の世界も同じなんです。
ヘブライ文化で、どう意味するのかを知らないまま、私たち日本人の感覚で御言葉を読みとってしまうと、聖書を通して神様が明らかにしておられる事が、全〜然っ、理解できません。

聖書の言葉の意味が分かるようになると、聖書は本当に「足元を照らす明かり」「揺るぎのない岩」「私たちの砦」「歓喜の庭」である事が分かるようになります。
そして、「父なる神」「救い主イエス」の御顔が明瞭になってくるのが分かります!

そして、めちゃめちゃ楽しいですっ ☆**\(>v<)/**☆

聖書を愛する皆さんと、聖書を学び、味わい、楽しみ、語り合えたら嬉しいです。
ぜひぜひ、ご一緒しましょう(^▽^)/!



 ご案内の引用 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ▼モリエルミニストリーズHP  http://moriel.jp/news/


ヘブライ人の世界観を使って聖書をより深く知ろう 
私たちはクリスチャンとして、聖書をより深く理解したいと願います。しかし西洋のクリスチャンは『ギリシャ的』な世界観をもっており、そのために聖書の教えがぼやけてしまうことがあります。 
ヘブルの本をしっかり理解するためには、ヘブル人のように読む方法を学ばなくてはなりません。一世紀のヘブルの聖書解釈法は『ミドラッシュ』と呼ばれています。 
このセミナーでは、聖書に関するヘブルの世界観を見ていきます。そして、イエス様、使徒たち、一世紀のユダヤ人クリスチャンたちがどのように聖書を読んだのかを考察します。その基礎的な手法のいつくかを紹介します。  
  
●聖書箇所の規則性をどう識別するか 
●関連箇所をどのように見つけるか
(これはとても重要です。よく見逃されがちな点です。)

●理解しにくい箇所を紐解く鍵となる一見変わった表現をどう識別するか

●旧約、新約をお互いの光に照らしながら、どのように読み、解釈することができるか
 

難しそうに聞こえるかもしれませんが、聖書に慣れ親しんでいる私たちには、実際は至ってシンプルです。このセミナーを通して、御言葉を愛する皆様が、今後の聖書の学びに役立つ実用的なコツをつかんでいただけることでしょう。 
日時:11月4日 月曜日(祝日) 
場所:名古屋市中小企業振興会館 第10会議室(和室・4階) 
   〒464-0856 名古屋市千種区吹上二丁目6番3号 
   (地下鉄桜通線 吹上駅から徒歩5分) 
   参加無料   
連絡先:ジェフ・トゥール  079-506-3508 morieljapan@yahoo.co.jp 

【午前の部】  
10:00〜11:30 律法を理解しよう「シャロームと平和の捧げもの」 
【午後の部】 
12:30〜14:00 予言書を理解しよう「主の日」 
14:15〜15:45 信仰を理解しよう「エムナー:ヘブライ的な信仰」

セッション1:「シャロームと和解のささげ物」
私たちは平和を作るように聖書で命じられていますが、それは実際にはどのような意味なのでしょう。今回は律法から初めて、聖書全体の「平和」の概念と、レビ記の和解のささげ物の規定を見ていきます。私たちの西洋的な平和の考えが、聖書のいう平和と大きく違うことが見えてくると思います。

セッション2:「主の日」
ゼパニヤ書をはじめとして、主の日について学んでいきます。主の日のテーマは旧新約聖書で強調されている、大きな預言的テーマです。その内容、目的、私たちにとってどう重要なのかを見ていきます。

セッション3:「ヘブライ的理解から見る信仰」
ユダヤ的観点から「信仰」を見ていきます。私たちは恵みによって救われたので、聖書的な信仰がどのようなものであるかを理解することは大切です。信仰が何であるかを理解するために、まずヘブライ語とギリシア語での信仰、「エムナー」と「ピスティス」から見ていく必要があります。現代では大半、または多くの信者たちが、信仰の意味を部分的または完全に誤解してしまっている状態にあります。

セミナー当日は質問や交わり、ディスカッションの時間が沢山ありますので、聖書とノートをお持ちになって、多く学んで帰ってください。


引用ここまで☆・・・・・・・・・・・・・


ポピーが思うに、大切なのは、自分自身で聖書を読み、理解できるようになる事です(^0^)

イエスを受け入れた私たち一人一人に、聖書を理解できる主の御霊が与えられているのですから、もっともっと高く、広く、深く、もっともっと本当の主イエスを知る事を追い求めたいと思っています。

あ!もちろん、「聖書にちょっと興味があるだけ〜」でも、まったく問題ナスです。
聖書は、誰を拒む事もありません。喜んで歓迎してくれるのが、聖書の御言葉です(-_^)b☆

当日、お会いできるのを楽しみにしています(^0^)/


新鮮な青草を楽しむひつじさん


2013年10月16日水曜日

あるサイトからのアクセスが!

皆さん、こんにちは。
昨晩の台風は凄かったですね。毎回、「今年最大級の…」といわれてますが、今回は「10年に一度の!」ということで、実際沢山の被害が出ているそうです。
こちらは、愛知県でしたので、朝には強風だけを残して台風は去っておりました。
でも昨晩までは、
「電車でも止まれば会社を休んじゃお〜♫」
とか考えていたので、被害を知るにつけ、反省を募らせています(汗)



これは何の皮膚でしょう〜か?

さて、ブログをされている方はご存知と思いますが、ブログを管理するページには参照元のサイトが分かるようになってるんですね。
どなたが来てくださったかは、コメントが入らないと全然分からないのですが、どのサイトを通してきて下さったか位は、分かるんです。

実は、9月の記事「なんてことだろう…!」で、動かされるままに記事を書いちゃったので、翌日ちょっと「皆さんの反応はどうかな〜?」と気になりまして、確認してみました。

すると、すっごく悪い感じの悪魔的なサイトから、しかも 「13件」の閲覧があったのです!
う〜ん、どちら様でしょうか(- -;)?よりによって「13」って…。まあ、よくできた偶然ですこと!おほほほ〜(^0^;)

英語でしたが、どこの国のサイトかまでは確認しませんでした。あまり、関わらない方がいいと思ってすぐに消しましたが、見た瞬間ゾッとしたのを覚えています。

さらにこの時、とても大切な友人とも、この記事が元でトラブルになりました。
幸い、とてもイエスに対して誠実に向き合っている方なので、逆に今は良き友人になる事ができ、古い蛇の策略は失敗に終わりましたが!ははは〜♫だ!


しかし、これは何かの偶然でしょうか?
実際、「聖書自体を学ぶ、理解する必要がある。」と言うと、とても特殊な反応を受けます。思った以上に怒りだしてしまったり、もしくはボ〜っとなって考えられないらしく、曖昧な返事しか返ってこなかったり。
あと、たまにあるのが別の話にすり替わることです。逆にコチラが「エ…?」っと、頭が一瞬フリーズします。

「コレは良い本だよ♫」と信仰に関する書籍を紹介すると、喜んで借りてくれます。
でも「聖書=イエスご自身を学ぼう!」というと拒否反応だったり、不思議です。

今までに「そうだよね!」と、打って響くような反応には、ほとんど出会ってないのが現状です。でも、そんな様々な反応を見るたびに、私は聖書自体を理解するための学びは本当に重要であるのだと思わされるのです。


たとえば、「神様のみこころ」とか「イエスに聞き従う」とか言ったりしますが、それは具体的に何がどうなることを言っているのか、考えた事がありますか…?

最近そういったセリフを聞いて思うのは、何か ” 啓示的 ” に受け取るものを意味して言っているのではないかな?ということです。インスピレーションのひらめきみたいな感じというか…。思い返してみて、私自身の理解はそうでした。

しかし神様の啓示は、すでに私たちのそば、すぐに知る事ができるところにあります。

「聖書」です。


「神のみこころ」も「イエスに聞き従う」の具体的な内容も、すべて聖書の御言葉を通して私たちに知らされています。もし、聖書の御言葉自体からくみ出す事よりも ” 啓示的 ” に受け取る事の方を重視しているなら、私たちは容易に ” この世の神 ” に惑わされるでしょう。

聖書の御言葉は、そのままイエスご自身であり、まさに神からの「啓示」そのものです。

聖書は活字で印刷されており、書籍という形となって、私の手に乗っています。
でも、そこに記載されている言葉の実体であるイエス、そのご人格、パーソンが生きて、ここにおられます。聖書を読み、「理解」する事は、その言葉を発せられた方との対話という有機的な交わりです。

私たちは、その聖書の御言葉と、どういった付き合いをしているでしょうか。
聖書に書かれている事を「理解」していますか。
私は、分かったつもりが一番厄介だったのだと思いました。皆さんはどうですか?

新約は大切だけど、旧約はよく分からん。となってる方もいるかもしれません。
でもそれでは、アンコの入ってないおまんじゅうみたいなもの。薄い皮だけでは、すぐにペシャンコ。形も保てませんよ!

または、理解はしていなくても「読む」という行為で、なにか霊的に養われていると考えますか?
私は、以前は確かにそのように思っていました。でもそれは、読む事で「ご利益がある」と考える事と、まったく同じ事だったのだと今は思っているのです。


あの古い蛇、 ” この世の神 ” であるサタンは、私たち以上に聖書の御言葉の重要性を知っているのではないでしょうか。

「聖書に記されている内容を”理解”するために自分から学ぶ」という事は、私たちにとって、いのちに関わるほどに重要なことではないかと思います。


2013年10月9日水曜日

3年間で出した結論

皆さん、ご無沙汰しておりました。お元気ですか。

日本は秋まっさかりで、朝のジョギングは本当に気持ちのいい季節となりました。
早朝の空気は澄んでいて気持ちがよく、まだ人や車も少なくて、朝の静けさに浸る事ができます。

日の出が見られたときは、とても素晴らしいです。イエスの購いと復活の朝をいつも思います。
そして、神の救いの契約が今日も継続している事、今は恵みの時である事を思い起こさせてくれるのです。

でも、今朝はとても厚い雲が覆いかぶさっていました。
そんな日は、あれだけ強烈な輝きを放って昇ってくる太陽が、まったく見えません。
雲を照らし、空を明るくして、そこに太陽があることは分かるのですが、太陽自体はまったく見えません。雲の厚みで、まったく隠されてしまうのです。




朝焼けを覆い隠す雲


この一ヶ月ほど、更新がなかったのは、いろいろと整理したい事があったからでした。
そして、ようやっと今の時点での答えに至ったので、分かち合いたいと思います。

10月から、今まで8年間通った教会から、一時離れる事にしました。
それは決して教会の牧師や兄弟姉妹が嫌になったとか、嫌いになったとかいうワケではありません。むしろ逆です。私は、教会の牧師も兄弟姉妹も大好きで、会えなくなる事がたまらなく嫌なのです。


教会に通い始めたころは、牧師やリーダーとしてお世話してくれる兄弟姉妹たちから沢山のことを教えてもらいました。とくに、その信仰の姿勢、生き方を模範として養われてきたように思います。

でも、私たちは地上での生涯をおくる間、一生涯をかけて神を、イエスを、御言葉と福音の奥義を知るために、追求し続ける必要のある存在であると思います。

神を知る事は、一日二日で分かるようなものではないですね。
また、今は私たち一人一人が御霊を頂いていて、以前のように預言者が私たちに神の言葉を取り次ぐのではなく、私たち一人一人が主イエスとの関係を育み、聖書の御言葉によって養われ、神を知り、主イエスの弟子、またイエスにある大人として成長していく責任があります。


3年ほど前、その事に気付いてから、御霊に押し出されるように聖書自体を学ぶ事を始めました。でも、その頃から”教会”との関係がぎくしゃくし始めてしまったのです。
教えられていた事が、全てが全て、正しかった訳ではなかった事に、気付き始めたからです。ビービー泣いては、頼ってばかりいた私は、訳が分からず、今度は抵抗し始めました。

おそらく、全てが健全な環境というのがあるならば、「人の教え」と「神の教え」の判別を学び始めた訳ですから、それはむしろ良い事、喜ばしい事であったはずだと思います。

でも、御霊の事は御霊の言葉、聖書の御言葉で解き明かす必要があります。
聖書の言葉の重要性を今ほど理解していなかった私は、さらに聖書から答えを見つけようというのではなく、この違和感を肉の言葉で説明し、解き明かそうとしていました。

それは、牧師や兄弟姉妹には反抗以外の、何ものにも見えなかっただろうと思います。
当惑させ、傷つけてしまったことがありました。とても申し訳なかったと思っています。


でも今、私は聖書を、イエスをまっすぐに知りたいのです。
一つの”○○教会”、一人の牧師だけから養われるのでは、どうしても教義が偏ってしまいます。それは、図らずして主の御顔の上に別の顔をつけることになると懸念しました。

死の淵と言えるようなところから救われて、受けていれ下さっていた”○○教会”。
私にとっては、あまりに影響力が大きくて、どうすることもできません。
思いを打ち明けても、「反抗」や「心の深いところに問題がある」となってしまいます。この話のかみ合わない状態に、情けない事に、私自身が賢明な応対がどうにもできないのです。

せめて、みんなともっと自由に対話ができればいいのですが、教会の教義の内での議論しかできないのが残念なところです。


私の判断を早急にジャッジしないで頂けたら、ありがたいです。
教会にある物差しではかると、きっと私は「信仰の脱落者、反抗、解決されていない問題が心の奥底にある、権威に服従できない、納得をもとめる、自分の我を通すことを治められない…」などなど、診断されてしまうのではないでしょうか。

でも、神の事、聖書の言葉、イエスについて、私たちは自分が知っていると思うことでさえ、知ってはいないかもしれない…という可能性を考えてみて頂きたいのです。

しばらく離れて、聖書自体、主ご自身を知る事を切に追い求めたいと思います。
最近は、日曜日に顔を出さない事が多かったですが、こういった理由からです。
誰かのせいとかではないので、誰も気にしないでくださいね。
悪いのは、聖書の言葉を覆い隠して邪魔をしている、あの古い蛇であると思っています。


とはいえ、牧師も兄弟姉妹もみんな神の家族である事に変わりはありません。
電話もメールもそのままです!いつでも連絡ください。近況報告し合えたら幸いです。

また、このブログはつづけますので、ここで生存を確認できますから、度々のぞいてもらえると嬉しいです。

また、お会いできるときを楽しみにしています。

ではでは\(^0^)/!


主イエスが私たちと共におられる事に信頼しつつ…!!!