2013年12月31日火曜日

ゆく年 2013年


2013年が、間もなく終わろうとしています。

皆さんは、どんな年でしたか?

私にとっての2013年は…。そうですね。
言ってみれば、「自分に与えられた命と人生を取り戻した一年」でした。

今までの私は、自分の人生なのに色んなものに振り回されっぱなし。
思考も、判断も、何かの影響をうけて、悩んでばかり。
本当に愚かな選択をしては周りに迷惑をかけたり、その刈り取りに苦渋をなめたりしていました。

今年、私の唯一の希望であった、聖書でご自身を現している神、救い主であるイエスの御顔をようやっと見いだすことができました。

今までの聖書の理解が全て崩れ去り、驚きと失望と脱力を味わいました。

そして、代わりに得たものは聖書の御言葉が今現在も生きていることを知った、驚愕と希望と喜び!

振返って自覚することは、私は9年間、キリスト教の中にいました。
しかし、私の内に生きている信仰のルーツは、ユダヤであるということです。

今、自分自身に与えられたものとして、私自身がこの人生の責任者であるという自覚が内に生まれました。それで、ようやっと私は、この人生を主イエス、すなわち「神のことば」その人に明け渡すことができるようになりました。

御言葉の土台が盤石であることの深い安堵は、本当に私が長年欲していたものです。

今、平凡な日々の中で、イエスの十字架によって新しくされた者として生きて行くことを学んでいるところです。新しくはじまる2014年、ようやっと主と向き合って生きられる!このことを心の底から嬉しく思います。
いやはや、本当にこんな日が来るとは…。感無量です。

今年一年を導いてくださった父なる神様に、心の底から感謝しています。




2013年12月25日水曜日

「聖書の基準」と「教会の基準」

先日は、以前所属していた教会が開催する、毎年恒例のクリスマスコンサートに行ってきました。

ほぼ毎週礼拝前や、礼拝後に兄弟姉妹との交わりもそこそこに練習に励んでいるクワイヤーの労が報われることは、私も嬉しく思います(^^)

兄弟姉妹と久々に会って元気な顔が見ることができて、とても嬉しかったです。
「あー、ポピー(ブログ主)元気だった〜(^^)♫?」と声をかけてくださる方もいて、本当に元気で温かい♡主にある家族を喜びました。

しかし…。
ココからは、”教会”の典型にむかついた本音トークっす…(怒)
人によっては、読まないほうがいいかもですゾ(-”-)

ここまでダイレクトに素直に言うヤツがいるとは思わなかったあのセリフ…。
それは、「”○○教会”を出た人」に対しての典型的な評価が、思わず素直に出てしまった兄弟の一言です。
兄「やあやあ、元気だった?」 
ポ「久しぶり!元気してますよ (^^)!」 
「へぇ〜ほんと〜?落ちぶれてるんじゃないのぉ〜?(悪気なし)」

でたぁ…!クラクラ〜ッ(*3*)コレなのです。コレ!
シクシクシク(T_T) 情けないっ…。もうね。いい加減、こういうの止めましょう?


うちの教会に集っていれば、祝福される。うちの教会は正しい教会。
うちの(牧師)先生は、他の先生たちよりも良い。正しい。祝福されてる油注がれた器…etc

そして、反対に、別の教会に行く人には「問題」があって、出て行く人、来なくなる人は、人生が悪い方へ行く(呪われる)。

それで頭を打って悔い改め、放蕩息子みたいに落ちぶれて、泣きながら「ごめんなさい。悔い改めます。」って”牧師”にすがりついて戻ってくる…という ”思想” です。

兄弟よ。分かってますよ。あんさんは、もちろん悪気もないし、それが親しい愛情表現の一つだという事も…。

そして、”○○教会” に休まず集っていると、そういう思想がいつの間にか頭のなかに生じてしまうのですよね。実際、私もそのように思っていました。

いなくなる人がいれば、皆この思想をベースとして話していました。
自分たちの  ” 教会 ” の方にこそ、彼らを居づらくした問題があるのでは?とは、かけらも思わなかったのです。

自分が ”○○教会” 出る事を悩むようになって、初めて居なくなった人々の胸の内、その一人一人が事情と悩みを持っていたという現実を、私自身まるで見ていなかったことに気付くことになりました。

たまに、牧師がその人の事を解説するのを聞いていたので、自分も来なくなったらこんな風に、牧師目線の診たてを人々に話されるんだろうか…?と思ったものです。
「”問題”をそのままにしているので、いずれ頭を打って戻ってくる。その時は、前よりひどい状態になっている」
ああ、そんなこと聞いたら、恐怖の動機づけされちゃうの当然でしょう。


さて、しかしこの ” 思想 ” の本質って何でしょう?それは、聖書に照らしたときに、恐ろしいものです。
これは、典型的な ”○○教会信仰” です。「○○教会 ”教” 」もしくは、そこの指導者対象の「○○牧師 ”教” 」ではありませんか。

大げさですか?
単純に、「教会のことを大好きな、牧師思いの微笑ましい信徒なだけじゃないのかな?」と思われますか?

いいえ、これは本質的には分裂です。(Ⅰコリント1:10〜13)
「○○先生につく」「△△先生は油注がれた器」「□□教会は主に祝されている」
他教会の兄弟姉妹との交流に良い顔をしないのが、ひとつの証だと思いますがいかがでしょう。

しかも、それには「祝福」「呪い」が伴うと思っているならば、これは紛れもなく「偶像礼拝」ではないでしょうか。

なぜなら、祝福と呪いは、Torah(トラー:モーセ五書)に明らかにされている「神のことば」「神ご自身と交わしている契約」に、一人一人が聞き従うかどうかの結果です。
その契約、すなわちシナイ山での「婚姻契約」は、今現在も変わらず有効である事を知る必要があります。

そして、私たち異邦人は「神のことば」そのものであるイエスを信じる「信仰」によって、その契約の祝福は今ここに、すでに与えられているのです。

私たちは、すでに神の教えであるTorahを「生きる」ように、修復されています。
イエスによってです!
その事実を私たちは、日常の日々の中に発見する事こそ、最優先に大切なことではないでしょうか。

”○○教会” に集うから?奉仕を熱心にしているから?十分の一献金をちゃんとしているから? 教会行事にことごとく参加しているから? ”牧師”に忠実だから? 祝福されるのですか。
愚かしい事です。そんな基準はありません。

むしろ、これら教会ごとには熱心でも、「神のことば」に熱心でなかったら、「神のことば」であるイエスと、何の関係がありますか。

今回の牧師のメッセージのように。(←いやみ)

集う群れは、どこでも良いのです。「母教会」という概念は日本特有で、聖書にはないものです。

イエスを信じる者は、神のことばにその基準を置きたいものです。


詩篇 46:10 
「やめよ。 わたしこそ神であることを知れ。 わたしは国々の間であがめられ、 地の上であがめられる。」



恐れるべきお方を恐れましょう。そこには、求めている安息と自由があります。

聖書を愛し、御言葉を愛し、イエスを愛する兄弟姉妹と共に集える日がくることを願っています。


2013年12月23日月曜日

喪中の家で永遠を思う


伝道者の書 7:1〜4
 
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。 
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。 
知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。


先日、父の兄である叔父が白血病で亡くなりました。
私は、長女であるので、この土日は納棺から、初七日まで全てに参加しました。

叔父は、生前私たちの町会議員を勤めたり、福祉活動に協力したり、地域にとても貢献した人でした。それで、今回の通夜や告別式には、今まで見た事のないほどの沢山の人々が来てくださって、正直、驚きました。

私は叔父について、中学校くらいの時期の記憶しかなかったです。
車で5分の近所に住んでいながら、…いや、むしろ近所だからか、叔父が地域において、どんな貢献をしているか、また苦労をしてるかも、全然知りませんでした。

また、お手伝いの青年が50人以上集まっていて、手際よく準備をしています。
「消防団とか青年団とかの方かな〜?」
と、思っていたら、それは叔父の子供たちである、私の従兄弟たちの高校の友人たちだそうです。新聞で見て、自発的に集まっているのだそうです。それが普通なのだとか。

私なら、そんなふうに友人たちがお互い自発的に集まるなんて事はありえません…。
ずっと地元で生活し、その地域の活動に協力して、少しずつ絆が育まれていたからこそなのだろう…と、親族たちが話していました。

今まで「”教会”中心」なんて”宗教”してきたこと、疑問に思って長らく悩んだ期間…、本当に時間を無駄にしてしまったことを悔やみます。

聖書の言う、神の単位は「家族」単位。「家族中心」です。
もっと早くに親族や地域に目を向けて、交流をもつ必要があったと思いつつ、今からは、家族、親族、地域を大切にしていくことに喜びも覚えました。


私の地元は、葬儀の時は明るく楽しく盛上がるのが習わしのようで、久しぶりに集まった親戚と、そりゃまあ大いに笑い、盛上がっていました。火葬の時までは。

告別式が終わり、火葬の順番がきて、皆で棺桶の遺体に花を添えていきます。
そこで初めて、みな静かに涙を流していました。父は、じっと叔父の顔を見つめていました。
皆で遺体の横たわる棺桶を火葬場に運びました。

静かに、棺桶が火葬炉に入っていきます。
扉は、ゆっくりと閉まっていきますが、扉の閉じる最後の一瞬は、なぜかドキっするように早く感じました。
控え室で待つ時になって、ようやっと人の一生涯の儚さを突きつけられたようでした。

私たちの一生涯は、本当に儚い。
日々にあった、喜びも悲しみも、悩みも安堵も、苦労もその報われた満足も、存在する理由はなんであっただろう…。部屋にかすかな空しさが漂いました。

本当に大切なこととは…。

それが、ふと永遠を思うとき。それが神に気付くときのよう。
人知を越えた、大きな営みの有無を、思い巡らすときのように感じました。

そこには、静けさがありました。


詩編 90:10-12 
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください

2013年12月22日日曜日

「楽しいクリスマス♫」そのルーツを知る



明日は楽しいクリスマス〜♫
この時期は日本だけでなく世界の多くの国々はクリスマスの雰囲気で包まれますね。
街も、家庭も、テレビやラジオも雑誌もクリスマスの話題で持ち切りです。

私も、小さい頃からクリスマスを楽しみにしてました。
手作りの家族パーティと、「真っ赤なおっはっな〜の〜♫」と歌いながらの家族全員でのプレゼント交換(^^)☆夜、お布団に入ってからは、一生懸命、目を開いてサンタクロースを見ようと頑張ってました。朝起きたとき、目に飛び込んでくる大きなクリスマスプレゼント!外は、輝くホワイトクリスマス…!!ああ、なんて楽しい思い出でしょう!


でも、聖書を神のことばと信じるようになってからは、気付く限り、様々なイベントのルーツを確認するのが習慣になってしまいました…(^^;)

そこで、クリスマスを楽しみにしている方々には、水を差すお話ですが…。

クリスマスのルーツをご紹介下さっている友人のSojournerさんの記事をご紹介します。


特に記事中のリンクを是非ご確認ください。

記事中、陰謀論でおなじみのイルミナティとかは、個人の好みにお任せしますが、興味ない方はスルーしてくだされ。

クリスマスにお馴染みの、「サンタクロース」や「もみの木」、「聖母子像」などのルーツについて解説している記事は、非常に分かりやすいかと思います。



「‘神の戒めを捨てて・・’」http://ameblo.jp/pupil0814/



私のなじんできたサンタクロースは、素敵な優しいおじいさんで、大好きでしたし、今でも見ると和みます。
しかし、現在の私は「サンタクロースよ!おまえもか!!!」ですっ(T◇T)

ルーツを知り、それが全て虚像だったと知り、かつそれが偶像礼拝となっていると知ってしまったら、それを無邪気に続けるのは困難なことです。

教会などでは、世が肯定しているクリスマスを良き機会として、主イエスを伝えるイベントを開催するところが沢山ありますね。

でも、教会は神のことばを委ねられた群れです。
自由と喜びにあふれながらも、大きな責任が委ねられているのも事実です。

ぜひ、ルーツを確認した上で、どう対応するよう、御言葉が告げているか、イエスを愛する一人一人が、自分で聖書を開いて、主ご自身にご確認頂けたらと思います。

明日は、以前所属していた教会のクリスマスコンサートに行く予定です。
ただただ、兄弟姉妹の元気な顔が見られる機会として心から楽しみにしています(^^)

しかし、私は聖書にご自身を余すところなく現しておられる主イエスご自身を岩とし、土台として御言葉の内に生きる事を選びます。

メシアの与えて下さっている、溢れるいのちを守りたいからです。



ヨシュア記 24:15 
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」


2013年12月16日月曜日

家族の和のあたたかさ

みなさん、お久しぶりです(^^)
だいぶんご無沙汰しておりました。

この1ヶ月ばかり、日々を堪能しておりました。

ジョギングを本格的に再開したり、友人の英会話教室の発表会のお手伝いをしたり、会社の同期たちと年末ジャンボを共同購入して、アホな想像を楽しんだり…♫

英語をマスターするために、学習も始めました(^^)b
英語は以前からその必要性を感じていましたが、外国人の友人もできたのと、聖書を学ぼうという方々が、片言でもみんな英会話ができてるぅっ(*▽*)!!という事に刺激をうけました。
また、聖書を学ぶ資料も、日本では残念ながら文献が本当に希少!海外文献が読める必要がありますね。
そんな訳で、英語の得意な友人に励まされながら、来年からはTOEICをうけて、上達を目指していきま〜す(^▽^)/


さてさて、そんな感じで楽しく日々を過ごしておりました。
ずっと実家に滞在していた甥っ子Babyたちは、段々首も座ってきたので自宅に帰ってましたが、とはいっても週に少なくとも3日はきてるので、とてもにぎやかです。
家族でワイワイやるのは、本当に楽しいものですね(^^)

でも、ちょっと困った事が…。ヤツら、病気のときにもしっかりコチラに来て療養するので、風邪とかやたら、もらってしまいます(>0<)
昨日は、胃腸風邪ダ〜!これは辛いですね〜〜。
シンちゃん(0歳)から、ウチの母へ。そして、先日わたくしへ。

ホント、きついわ〜。
胃腸が弱って、寝返りするのも、ソロソロとしないと悶絶しちゃうんですよ。
それに病気の時って、いろいろと嫌な事を考えちゃったりしませんか?


今回は、そんな時に、ありがたいものを色々発見しました。


1)ORS(経口輸液オーアールエス)

体液に近い成分に調整されたボカリスェットの薄い奴みたいな飲料。
お水だと、胃腸に重くて、チビチビとしか飲めないのですが、ORSだとスーっと飲めます。そして、すぐに汗が出だして、楽になります。
私は主に白湯を飲むのですが、ベット脇に置いておくとすぐに冷えたお水になってしまうので、冷たくても飲めるORSは、ありがたかったです(^^)b


2)おかゆ

さすがは、世界に誇る療養食!!!
段々、回復してきて、食事を取る気になったときに、本当に薄くてお塩も少しの温かいお粥を頂きました。よく噛んで、胃腸に負担にならないように頂きましたが…、お粥は効く!!!
食後に一寝入りして、起きた時の身体の楽なこと〜 ♫
また、お粥の他にも、甘酒も食べる点滴と言われるほどに、理想的な栄養飲料とのこと。
う〜ん、日本料理って素晴らしい…と、改めて感動〜♫でした(^^)


2)黒猫のジジ

私にやたら懐いている、黒猫のジジちゃんは、意外に癒される〜。ず〜っと、一緒のお布団でねてました。ありがとよ♫
罪のない被造物である動物たちは、変に悪い事を考えがちになる時に、とても助けられる存在ですね。動物は、アダムがエバを得る前に「助け手」として神様がアダムのそばに連れてきたものですね。でもそこには「助け手」として充分な者が見つけられず、神様はアダムの肋骨からエバを作りました。
男と女が二人で一体となる素晴らしい奥義に感動する場面です。

でも、動物たちにも目を止めたいものです。彼らも「助け手」として、私たちのそばにいるのですね。私は、家族として沢山の動物たちと一緒に過ごしてきました。
ニワトリ、猫、うさぎ、犬、金魚、インコ、ジュウシマツ、九官鳥、ランチュー、ハト、雀、サギの子 などなど。みんな、家族として、かけがえのない子たち。
色んな事で助けられたり、学ばされたりしましたよ(^^)


3)床

あはは!これ、ただの床です〜。でも、冷たくて気持ちいいの。
おトイレからでて、ぐったりしているときに、床で寝るとヒヤ〜っとして、楽になるんですよね。でも、見られるとビックリされること必至なので、こっそりヒエヒエ♡してから、すぐにベットに戻りました(笑)


4)家族の笑い声

やっぱりダントツはこれでしょう(^^)!
日曜日の夕食は、妹たちの家族も全部そろっての恒例お食事会です。昨晩は、お好み焼きのご様子。良い香りがしてました〜。
今回は、みんなに風邪をうつさないように、またほぼ「貞子」(←鏡見てビビった)みたいな容貌になってるのを見て、気を使わせないよう、2階の自室で大人しくしていましが、家族の笑い声は本当にありがたいものです。
一緒に居なくても、自分のその家族の一員だと分かっているからですね。ウ〜ンウ〜ンとベットでうなっていても、私もその和の中にいるのでした。
これが「家族」というものなのかな。と思いました(^^)


こんな、平凡ですが、今ここにある恵みを覚えていると、ふわふわと浮かんでくる嫌な事も、気にならなくなってくるのです。

胃腸風邪はしんどかったけど、どんなときにも、神様が見ていてくださることの平安と安息を新たにした療養記でした〜(^^)/

2013年11月11日月曜日

9年目の分岐 支流へと

みなさん、こんにちは(^^)
11月に入り、大分寒くなってきました。
どの季節も良さがありますが、ポピーは冬も大〜好きです。
寒いんですが、その分、お部屋を暖房で暖めてヌクヌクするのがたまりません♫
今は、どれだけでも温かく過ごす事ができますから、冬はあったかさの幸せ〜♡を感じる事のできる季節です。

さてさて、少々ご無沙汰してしまいましたが、この2週間ほどで、色んな事が激変してました(^0^;) 記録もかねて、ありのまま書いときます。

以前、教会から離れる事をひとり決意したことをお話しました。(「3年間で出した結論」)その時は、この葛藤を上手く説明できず、話の噛み合なさに対応できない事に非常に苦慮していました。
でも、その時から気になったいた聖書の言葉は…。


箴言 8:12
知恵であるわたしは分別を住みかとする。 そこには知識と思慮とがある。

う〜ん(汗)「知恵」とは「神の言葉」。すなわち「私たちの主イエス」ご自身のことです。イエスは分別を住かとしておられるとは…。8年も親しく集っていながら、黙っていなくなるって…。分別のある対応かしらん??購読してる雑誌だってあるのに、困らせてしまうやろ…。

でも「とにかく離れよう…!」とひとり決意した後、不思議な事に急激に思考が整理され、明瞭になっていくのに驚きました。
これならば、冷静に話ができると思い、「やっぱ、ちゃんと話をせねばっ!」と、思い切って所属していた教会の牧師先生と話をする機会を頂きました。
目的は?顔と顔を合わせて、ありのままを話をし、「信頼関係を取り戻すため」!

(電話するときは、なぜが心臓バクバク、お腹はピ〜、呼吸は浅く、目眩くらくら〜なほど、緊張しました。いや本来、緊張する必要さえないんですけど、なんででしょうね?)

とにかく聖書は「人間関係の健全」さ、「人々との関係をできる限り平和に保つ事」を求めておられます。神様は、人々が互いに健全に関係し合うこと、大切にし合うことを重視しているように思います。

その週末にさっそく時間を取ってくださり、”教会”において、私自身が疑問に思っていることについて、6時間も時間をとってお話しすることができました。(先生、ありがとうございます(感謝))

そこでの内容はダイレクトにあかしすることはしませんが、牧師先生の考えをできる限り聞かせて頂く事ができたかと思います。また、私自身が求めている事も、分かち合えたのではないかと思います。(だとイイな…^_^;)

それをふまえて更に2回、日曜の礼拝に集いつつ整理した結果、8年間集っていた教会を離れ、さらに聖書について深く学ぶことのできる教会に集うことを決めました。


11月3日(日)の礼拝後、牧師先生のところに尋ねて行き2点を理由としてお伝えしました。

▼一つは、もっと聖書自体を深く学びたいってこと。
一人の牧師先生からの教えだけでは、先生の理解範囲と理解レベルで頭打ちになってしまうので、自分はさらに深く聖書自体を学んでいきたい。

▼もう一つは、牧師先生からのトップダウン、右に倣えでの一致を目指した組織体系の教会より、牧者から御言葉によって養われながらも、牧者も信徒も一緒に話し合いながら、問題を解決したり、聖書を学んだり、ミニストリーを立ち上げたり、判別をしたりする教会(群れ)に集いたいということ。

牧師は静かに「分かった。」と一言いってから、「祈ります。」といって、なんと出立の祝福を祈ってくれました(ビックリ)!
そして、教会の交わりにも「もともと何の制限も設けてない」ので来ても良いといわれ、兄弟姉妹との関わりも持ち続けることができるようになりました(ビックリ)!
いや〜我らが先生は、さすが男前です(←ちょっと違うか)

私は「教会を離れる」っていうと、「断絶っ!」って感じに、とても破壊的なもののように思って恐れていました。まるで、自分の指を自分で切り落とすような辛さですよね。
(あ〜、だから今までは動揺して話ができなかったんでしょうか?)

とにかく、お互いに顔を合わせてちゃんと話をすること、分かち合う事はなんて大切なことでしょうか。
それをしないと、疑心暗鬼が、私たちの関係を破壊して行ってしまうようです。それはあの古い蛇の思う壷。そうはさせたくないですよね!



その日、そのまま会えるだけの兄弟姉妹に会って、教会を変わる旨を話し、挨拶をさせてもらいました。今まで、そんな事を考えていたなんて話してなかったので、驚かせてしまいましたが、この本当に麗しい神の家族の兄弟姉妹は、こんなポピーを残念がってくれ、またこれからの事を励ましてくれました。ありがとう。
「挨拶して出て行く人はじめてだ〜!」と笑ってくれた姉妹がいました。ほんとそうですね。いつの間にかいなくなっちゃう方が多かったナ。そんなの寂しいですよネ。
祈ってくれた姉妹たちにも、感謝。本当にありがとう。

これからは、モリエル・ミニストリーズで出会った方々の教会になんとSkypeで集いながら(←今風デス〜)、聖書を更に深く学んでいきます。
また、名古屋でのモリエルの聖書セミナーの手伝いを奉仕として手伝っていきたいと思っています。

とはいっても、またちょこちょこ今までの教会にも顔を出すので、みんなと近況報告でもできたら嬉しいな〜!


2005年の1月に、初めて教会にいってから、9年目ですね(今まで8年と思ってたけど9年たってた)色んな事があったけど、どれもすべて必要な事だったと思います。牧師先生や兄弟姉妹の支え無しには、のりきって来れなかっただだろうと本気で思います。
感謝・感謝・感謝です。


さて、これからは、主ご自身につながりながら、色んな兄弟姉妹と交わりを持って行く事になります。
ど〜なるのかは、今の時点ではまだ良く見えませんが、ただこの日常を主のいのちで目一杯楽しみながら、御言葉を通して主ご自身にグイグイ迫って行きたいと思っています♫


教会の牧師先生はじめ、兄弟姉妹を感謝し、また祝福を祈りつつ…!!!





2013年10月23日水曜日

『11月 モリエル名古屋セミナー』のお知らせ♫

みなさん、こんにちは(^^)
11月に、モリエルミニストリーズの名古屋セミナーが開催されますので、お知らせします!

こちらは、ポピー オススメの聖書の勉強会です(^^)
ホピーは、聖書を読み取るために「ヘブライ的世界観」を知る事がとても重要だと思っています。慣用句や数字、名前、土地などについて、ヘブライ民族では普通に理解されていた事が、私たちには分かりません。

私たちは、
「7」を見ると、「ラッキーセブン☆」
「4」は、「死」を連想して縁起が悪いとか言いますよね。

そういった日本文化に浸透している意味が全世界共通でないことは、誰でも知っています。聖書の世界も同じなんです。
ヘブライ文化で、どう意味するのかを知らないまま、私たち日本人の感覚で御言葉を読みとってしまうと、聖書を通して神様が明らかにしておられる事が、全〜然っ、理解できません。

聖書の言葉の意味が分かるようになると、聖書は本当に「足元を照らす明かり」「揺るぎのない岩」「私たちの砦」「歓喜の庭」である事が分かるようになります。
そして、「父なる神」「救い主イエス」の御顔が明瞭になってくるのが分かります!

そして、めちゃめちゃ楽しいですっ ☆**\(>v<)/**☆

聖書を愛する皆さんと、聖書を学び、味わい、楽しみ、語り合えたら嬉しいです。
ぜひぜひ、ご一緒しましょう(^▽^)/!



 ご案内の引用 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ▼モリエルミニストリーズHP  http://moriel.jp/news/


ヘブライ人の世界観を使って聖書をより深く知ろう 
私たちはクリスチャンとして、聖書をより深く理解したいと願います。しかし西洋のクリスチャンは『ギリシャ的』な世界観をもっており、そのために聖書の教えがぼやけてしまうことがあります。 
ヘブルの本をしっかり理解するためには、ヘブル人のように読む方法を学ばなくてはなりません。一世紀のヘブルの聖書解釈法は『ミドラッシュ』と呼ばれています。 
このセミナーでは、聖書に関するヘブルの世界観を見ていきます。そして、イエス様、使徒たち、一世紀のユダヤ人クリスチャンたちがどのように聖書を読んだのかを考察します。その基礎的な手法のいつくかを紹介します。  
  
●聖書箇所の規則性をどう識別するか 
●関連箇所をどのように見つけるか
(これはとても重要です。よく見逃されがちな点です。)

●理解しにくい箇所を紐解く鍵となる一見変わった表現をどう識別するか

●旧約、新約をお互いの光に照らしながら、どのように読み、解釈することができるか
 

難しそうに聞こえるかもしれませんが、聖書に慣れ親しんでいる私たちには、実際は至ってシンプルです。このセミナーを通して、御言葉を愛する皆様が、今後の聖書の学びに役立つ実用的なコツをつかんでいただけることでしょう。 
日時:11月4日 月曜日(祝日) 
場所:名古屋市中小企業振興会館 第10会議室(和室・4階) 
   〒464-0856 名古屋市千種区吹上二丁目6番3号 
   (地下鉄桜通線 吹上駅から徒歩5分) 
   参加無料   
連絡先:ジェフ・トゥール  079-506-3508 morieljapan@yahoo.co.jp 

【午前の部】  
10:00〜11:30 律法を理解しよう「シャロームと平和の捧げもの」 
【午後の部】 
12:30〜14:00 予言書を理解しよう「主の日」 
14:15〜15:45 信仰を理解しよう「エムナー:ヘブライ的な信仰」

セッション1:「シャロームと和解のささげ物」
私たちは平和を作るように聖書で命じられていますが、それは実際にはどのような意味なのでしょう。今回は律法から初めて、聖書全体の「平和」の概念と、レビ記の和解のささげ物の規定を見ていきます。私たちの西洋的な平和の考えが、聖書のいう平和と大きく違うことが見えてくると思います。

セッション2:「主の日」
ゼパニヤ書をはじめとして、主の日について学んでいきます。主の日のテーマは旧新約聖書で強調されている、大きな預言的テーマです。その内容、目的、私たちにとってどう重要なのかを見ていきます。

セッション3:「ヘブライ的理解から見る信仰」
ユダヤ的観点から「信仰」を見ていきます。私たちは恵みによって救われたので、聖書的な信仰がどのようなものであるかを理解することは大切です。信仰が何であるかを理解するために、まずヘブライ語とギリシア語での信仰、「エムナー」と「ピスティス」から見ていく必要があります。現代では大半、または多くの信者たちが、信仰の意味を部分的または完全に誤解してしまっている状態にあります。

セミナー当日は質問や交わり、ディスカッションの時間が沢山ありますので、聖書とノートをお持ちになって、多く学んで帰ってください。


引用ここまで☆・・・・・・・・・・・・・


ポピーが思うに、大切なのは、自分自身で聖書を読み、理解できるようになる事です(^0^)

イエスを受け入れた私たち一人一人に、聖書を理解できる主の御霊が与えられているのですから、もっともっと高く、広く、深く、もっともっと本当の主イエスを知る事を追い求めたいと思っています。

あ!もちろん、「聖書にちょっと興味があるだけ〜」でも、まったく問題ナスです。
聖書は、誰を拒む事もありません。喜んで歓迎してくれるのが、聖書の御言葉です(-_^)b☆

当日、お会いできるのを楽しみにしています(^0^)/


新鮮な青草を楽しむひつじさん


2013年10月16日水曜日

あるサイトからのアクセスが!

皆さん、こんにちは。
昨晩の台風は凄かったですね。毎回、「今年最大級の…」といわれてますが、今回は「10年に一度の!」ということで、実際沢山の被害が出ているそうです。
こちらは、愛知県でしたので、朝には強風だけを残して台風は去っておりました。
でも昨晩までは、
「電車でも止まれば会社を休んじゃお〜♫」
とか考えていたので、被害を知るにつけ、反省を募らせています(汗)



これは何の皮膚でしょう〜か?

さて、ブログをされている方はご存知と思いますが、ブログを管理するページには参照元のサイトが分かるようになってるんですね。
どなたが来てくださったかは、コメントが入らないと全然分からないのですが、どのサイトを通してきて下さったか位は、分かるんです。

実は、9月の記事「なんてことだろう…!」で、動かされるままに記事を書いちゃったので、翌日ちょっと「皆さんの反応はどうかな〜?」と気になりまして、確認してみました。

すると、すっごく悪い感じの悪魔的なサイトから、しかも 「13件」の閲覧があったのです!
う〜ん、どちら様でしょうか(- -;)?よりによって「13」って…。まあ、よくできた偶然ですこと!おほほほ〜(^0^;)

英語でしたが、どこの国のサイトかまでは確認しませんでした。あまり、関わらない方がいいと思ってすぐに消しましたが、見た瞬間ゾッとしたのを覚えています。

さらにこの時、とても大切な友人とも、この記事が元でトラブルになりました。
幸い、とてもイエスに対して誠実に向き合っている方なので、逆に今は良き友人になる事ができ、古い蛇の策略は失敗に終わりましたが!ははは〜♫だ!


しかし、これは何かの偶然でしょうか?
実際、「聖書自体を学ぶ、理解する必要がある。」と言うと、とても特殊な反応を受けます。思った以上に怒りだしてしまったり、もしくはボ〜っとなって考えられないらしく、曖昧な返事しか返ってこなかったり。
あと、たまにあるのが別の話にすり替わることです。逆にコチラが「エ…?」っと、頭が一瞬フリーズします。

「コレは良い本だよ♫」と信仰に関する書籍を紹介すると、喜んで借りてくれます。
でも「聖書=イエスご自身を学ぼう!」というと拒否反応だったり、不思議です。

今までに「そうだよね!」と、打って響くような反応には、ほとんど出会ってないのが現状です。でも、そんな様々な反応を見るたびに、私は聖書自体を理解するための学びは本当に重要であるのだと思わされるのです。


たとえば、「神様のみこころ」とか「イエスに聞き従う」とか言ったりしますが、それは具体的に何がどうなることを言っているのか、考えた事がありますか…?

最近そういったセリフを聞いて思うのは、何か ” 啓示的 ” に受け取るものを意味して言っているのではないかな?ということです。インスピレーションのひらめきみたいな感じというか…。思い返してみて、私自身の理解はそうでした。

しかし神様の啓示は、すでに私たちのそば、すぐに知る事ができるところにあります。

「聖書」です。


「神のみこころ」も「イエスに聞き従う」の具体的な内容も、すべて聖書の御言葉を通して私たちに知らされています。もし、聖書の御言葉自体からくみ出す事よりも ” 啓示的 ” に受け取る事の方を重視しているなら、私たちは容易に ” この世の神 ” に惑わされるでしょう。

聖書の御言葉は、そのままイエスご自身であり、まさに神からの「啓示」そのものです。

聖書は活字で印刷されており、書籍という形となって、私の手に乗っています。
でも、そこに記載されている言葉の実体であるイエス、そのご人格、パーソンが生きて、ここにおられます。聖書を読み、「理解」する事は、その言葉を発せられた方との対話という有機的な交わりです。

私たちは、その聖書の御言葉と、どういった付き合いをしているでしょうか。
聖書に書かれている事を「理解」していますか。
私は、分かったつもりが一番厄介だったのだと思いました。皆さんはどうですか?

新約は大切だけど、旧約はよく分からん。となってる方もいるかもしれません。
でもそれでは、アンコの入ってないおまんじゅうみたいなもの。薄い皮だけでは、すぐにペシャンコ。形も保てませんよ!

または、理解はしていなくても「読む」という行為で、なにか霊的に養われていると考えますか?
私は、以前は確かにそのように思っていました。でもそれは、読む事で「ご利益がある」と考える事と、まったく同じ事だったのだと今は思っているのです。


あの古い蛇、 ” この世の神 ” であるサタンは、私たち以上に聖書の御言葉の重要性を知っているのではないでしょうか。

「聖書に記されている内容を”理解”するために自分から学ぶ」という事は、私たちにとって、いのちに関わるほどに重要なことではないかと思います。


2013年10月9日水曜日

3年間で出した結論

皆さん、ご無沙汰しておりました。お元気ですか。

日本は秋まっさかりで、朝のジョギングは本当に気持ちのいい季節となりました。
早朝の空気は澄んでいて気持ちがよく、まだ人や車も少なくて、朝の静けさに浸る事ができます。

日の出が見られたときは、とても素晴らしいです。イエスの購いと復活の朝をいつも思います。
そして、神の救いの契約が今日も継続している事、今は恵みの時である事を思い起こさせてくれるのです。

でも、今朝はとても厚い雲が覆いかぶさっていました。
そんな日は、あれだけ強烈な輝きを放って昇ってくる太陽が、まったく見えません。
雲を照らし、空を明るくして、そこに太陽があることは分かるのですが、太陽自体はまったく見えません。雲の厚みで、まったく隠されてしまうのです。




朝焼けを覆い隠す雲


この一ヶ月ほど、更新がなかったのは、いろいろと整理したい事があったからでした。
そして、ようやっと今の時点での答えに至ったので、分かち合いたいと思います。

10月から、今まで8年間通った教会から、一時離れる事にしました。
それは決して教会の牧師や兄弟姉妹が嫌になったとか、嫌いになったとかいうワケではありません。むしろ逆です。私は、教会の牧師も兄弟姉妹も大好きで、会えなくなる事がたまらなく嫌なのです。


教会に通い始めたころは、牧師やリーダーとしてお世話してくれる兄弟姉妹たちから沢山のことを教えてもらいました。とくに、その信仰の姿勢、生き方を模範として養われてきたように思います。

でも、私たちは地上での生涯をおくる間、一生涯をかけて神を、イエスを、御言葉と福音の奥義を知るために、追求し続ける必要のある存在であると思います。

神を知る事は、一日二日で分かるようなものではないですね。
また、今は私たち一人一人が御霊を頂いていて、以前のように預言者が私たちに神の言葉を取り次ぐのではなく、私たち一人一人が主イエスとの関係を育み、聖書の御言葉によって養われ、神を知り、主イエスの弟子、またイエスにある大人として成長していく責任があります。


3年ほど前、その事に気付いてから、御霊に押し出されるように聖書自体を学ぶ事を始めました。でも、その頃から”教会”との関係がぎくしゃくし始めてしまったのです。
教えられていた事が、全てが全て、正しかった訳ではなかった事に、気付き始めたからです。ビービー泣いては、頼ってばかりいた私は、訳が分からず、今度は抵抗し始めました。

おそらく、全てが健全な環境というのがあるならば、「人の教え」と「神の教え」の判別を学び始めた訳ですから、それはむしろ良い事、喜ばしい事であったはずだと思います。

でも、御霊の事は御霊の言葉、聖書の御言葉で解き明かす必要があります。
聖書の言葉の重要性を今ほど理解していなかった私は、さらに聖書から答えを見つけようというのではなく、この違和感を肉の言葉で説明し、解き明かそうとしていました。

それは、牧師や兄弟姉妹には反抗以外の、何ものにも見えなかっただろうと思います。
当惑させ、傷つけてしまったことがありました。とても申し訳なかったと思っています。


でも今、私は聖書を、イエスをまっすぐに知りたいのです。
一つの”○○教会”、一人の牧師だけから養われるのでは、どうしても教義が偏ってしまいます。それは、図らずして主の御顔の上に別の顔をつけることになると懸念しました。

死の淵と言えるようなところから救われて、受けていれ下さっていた”○○教会”。
私にとっては、あまりに影響力が大きくて、どうすることもできません。
思いを打ち明けても、「反抗」や「心の深いところに問題がある」となってしまいます。この話のかみ合わない状態に、情けない事に、私自身が賢明な応対がどうにもできないのです。

せめて、みんなともっと自由に対話ができればいいのですが、教会の教義の内での議論しかできないのが残念なところです。


私の判断を早急にジャッジしないで頂けたら、ありがたいです。
教会にある物差しではかると、きっと私は「信仰の脱落者、反抗、解決されていない問題が心の奥底にある、権威に服従できない、納得をもとめる、自分の我を通すことを治められない…」などなど、診断されてしまうのではないでしょうか。

でも、神の事、聖書の言葉、イエスについて、私たちは自分が知っていると思うことでさえ、知ってはいないかもしれない…という可能性を考えてみて頂きたいのです。

しばらく離れて、聖書自体、主ご自身を知る事を切に追い求めたいと思います。
最近は、日曜日に顔を出さない事が多かったですが、こういった理由からです。
誰かのせいとかではないので、誰も気にしないでくださいね。
悪いのは、聖書の言葉を覆い隠して邪魔をしている、あの古い蛇であると思っています。


とはいえ、牧師も兄弟姉妹もみんな神の家族である事に変わりはありません。
電話もメールもそのままです!いつでも連絡ください。近況報告し合えたら幸いです。

また、このブログはつづけますので、ここで生存を確認できますから、度々のぞいてもらえると嬉しいです。

また、お会いできるときを楽しみにしています。

ではでは\(^0^)/!


主イエスが私たちと共におられる事に信頼しつつ…!!!