2013年9月19日木曜日

秋空の青

木々の隙間からのぞく秋空


みなさん、こんにちは。先日は、凄い台風でしたね。被害はなかったでしょうか?
うちの方は、植木鉢やすだれが飛んだくらいで、特別大きな被害はありませんでした。

家の中から台風の様子を見ていましたが、自然の猛威は凄まじいものですね。
でも、なんだかいつも畏敬の念に打たれるのです。
それで、台風を窓から眺めるのが、私は好きです(^^)

台風が過ぎ去ったら、秋の気配が一気に訪れました。
私は秋が、大好きなのです(^▽^)!

すがすがすく、実りをたたえた濃厚な空気が大好きです。
勉強の秋、食欲の秋、読書の秋…。いろいろ言いますね。
皆さんは、どんな秋を過ごされますか(^v^)?


周りからはお調子者で、いつも笑っているポピーとして見られることが多いのですが、こんなポピーにもいっちょ前に悩みがあったりするんですよ。
友人のこと、教会のこと、家族のこと、仕事のこと…。

だれでも当たり前の事かもしれませんが、人をことで悩むのが、弱い私には一番こたえるものです(^△^)情けなし〜。

どうしてるかな?傷つけてしまったんじゃないかな?あんな事を言ってしまったけど、どう思ったかな?どう対応したらいいのかな?なにを望んでるのかな?

相手の事っては、相手の事をよ〜く知らないと、私は、ホント〜によく分かりませぬ。
だから、いろいろ悩んでも、結局は私の身勝手に考えてるんだろうな〜。と途方に暮れたりします。

そういった時には、ただそばにおられる主イエスの指先をそっと掴んで、共に静かに歩いている気分です。


昨日、長期出張にでていた同期の同僚(友人)が、3ヶ月ぶりに本社に戻ってきました。
明るく、気さくで、他意がなく、誰とでも打ち解ける。一緒にいると、人を元気する友人。イイ奴って感じの友です。

そんな友人と一緒に昼食を共にしました。出張先でのことや相次ぐトラブルなど、笑いながら話していました。

すると、おもむろに
「久々に会って驚いた。ポピー、すごいキレイになったね。」

どひゃー!こっちが驚いたわい!動揺して笑ってごまかしちゃいました。
でも、とても嬉しかったです。

とくに、この数ヶ月は悩みが多い日々でした。
主の意図した姿には、ほど遠い自分をみては嘆く事が多かったです。

でも、そのなかで主のみこころを知る事も多かった。
主の望んでおられる事を知る事ができたことは、苦しみを覆って喜ばしいことだったのも事実です。

秋空の真っ青な空をみあげた時のように、心の中にすがすがしい風が吹き抜けたようでした。

友に感謝!ありがとう!!!








2013年9月5日木曜日

Shalom シャローム 和解の安堵と喜び






初めの人、神の子アダムが、悪魔に聞き従って神に背いたために、私たち人類は神の怒りの下に置かれ、呪われた者となりました。
各々が短い人生を少しでも幸せに過ごそうと、各自の信じる幸せになれる道を四苦八苦しながら生きています。

創り主との断絶。私たちが、その全存在を全面的な信頼で委ねることのできる、唯一の本当の父との、断絶。

それは、実際どんな苦しみだと感じておられますか。

私は、神との断絶の苦しみを経験するとしたら、おそらく、人間関係が壊れた時の苦しみが近いのではないかと思います。

親しく交わりをしてきた、家族や友達、教会の牧師や兄弟姉妹、会社の同僚。よくいくお店でいつも話しをする店員さん、メル友、ブログ友、今だとLine友とかもあるのかな?
どんな程度でも、どんな関わりでも、人と人なら、それは立派な交わりですよね。

お互いがお互いを受け入れていて、親しみがあり、楽しさがあり、尊重しあい、信頼しあい、支えあっている。
そこには、安堵があって、それは心地良く、喜びがおおってくれてます。

私は、人との交わりが本当に大好きです。人が大好きです。
一人一人が、それぞれの人生を懸命に生きてる。高価で尊い、一人一人との交わりはとっても楽しいものです。


でも、その楽しさ、うれしさ、温かさを味わった親しい関係が、何かの出来事で突然壊れる。関係が破壊される。
取りつく島もなくなり、対話が成り立たない、意思の疎通は完全に途絶える、疑心暗鬼が心に忍び込んでくる…!

その原因がなんであれ、今までそこにあった交わりが壊れると、大変なダメージを受けます。その時の戸惑いと動揺。身悶えするような苦しみ。思うだけでも身震いがします。
みなさんも、長い人生、一度や二度は、経験がないでしょうか。

私は、なかなか動かなかったいつもの体重が1kg、余裕で落ちました。ははは(^_^;)


そう、それがアダムとの交わりが断たれた、父の苦しみだったのではないかと思ったのです。


エレミヤ書 31章 20節 
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは  彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。  ——主の御告げ——


Shalom(シャローム)は、あいさつとしてかわす言葉ですが、意味合いは「平安」。
でももっと具体的には「敵対した関係が、和解をして壁が取り払われた。交わりが回復して、安堵が広がった」という意味合いだと教わったことがあります。

そうです。あの安堵です。
経験したことがある方は、分かると思うのです。どうでしょう?

暗い暗い壁が、消え去った。重い重い垂れ幕が、取り去られた!
光が射し込み、あたりを照らす。互いの顔に笑いがこぼれる。
これこそ、本当の安堵と平安の満ちるときです。

互いに和解をして、互いに交わりをもって生きること。それは、神様の姿に似せて作られた私たちにとって、絶対に必要な、絶対に守りたい宝なのです。

だから、神は、私たちが互いに平和を保って、人々との交わりを豊かに健やかに生きて、その人生を楽しめるよう、聖書にその秘訣を事細かに、しかも神ご自身の指で石の板に記してくださっています。

イエスが肉体をとって、地上に来られ、想像を絶する十字架のあがないを成し遂げてくださったのは、まさに、父である神と、子である私たちとの和解のため。

それは、「私たちのため」と言うよりも、父なる神様の安堵と喜びのために、神のひとり子 イエスが、私たちの身代わりになってくださったのです。

父なる神が、私たちを集めて、その懐の内に取り戻すため。
その父の喜びが、私たちのうちに溢れ出るために…!



友との交わりが壊れた。

交わりを壊すように策略を巡らした悪魔を私は憎む。
悪魔の策略にのってしまった、罪残した友の”肉”を私は憎む。
悪魔の策略を退ける責任の自覚と、その努力を怠った友に、憤りを覚える。

でも、友の魂、その存在、友の内に住む御霊、主イエスを私は愛している。
だから、交わりの破壊は、私の心にも大きなダメージをもたらした。

その友が、和解の言葉を送ってくれた。
私の悲しみは、差し込む朝日の光を受けた、朝露のように消え去った。
重くのしかかっていた黒い霧は消え去り、身体は健康を取り戻した。

もちろん赦すにきまっている。
むしろ、赦させてくれて、その機会をくれて、私はとてもとても感謝している。

でも、ごまかすことのできない事がある。
壊れた信頼は元には戻せないということ。信頼の回復には長い時間と実績が必要となる。
人は、あくまでも自分でまいた種を自ら刈り取ることになるから。

私は、それを担うことはできない。
それは、神が定めたことだから。どんな言い訳も通用しないこと。


でも、敵の策略に気づいて、すぐに神に立ち戻った友を私は尊敬する。
私たちは主に直接お会いする時まで、完全ではないから、あるときイエスを忘れて、とんでもないことをしてしまう危険は、誰にでもある。
私だって、道からはずれて間違いを犯す可能性は0ではないのだから。0にしたいけど。

その時は、友のように、イエスの御前に進み出る者でありたい。
自らの過ちに気づいたとき、ただちに相手に謝罪を伝える、そんな、イエスに対して素直な者でありたい。

友のように、私もイエスと親しい親友になりたいと思った。


友が笑ってくれるように願っている。







2013年9月4日水曜日

豪雨で足止め中!

今日の豪雨で、全線運転停止!

今、職場の最寄り駅で、すでに3時間、足止め中です(^_^;)

どんどん人が増えていく…。


最近の天気は、本当に異常ですね。
ゲリラ豪雨に、竜巻!
どうなっちゃてるんでしょう。

こんな時は、無茶をせず、本でも読んで待ちたいと思います(-_^)

運行再開まで、あと1時間。



なんてこと!のワケ「原意が分かると理解が変わる」

みなさん、今朝はちょっと荒っぽい書き方で、失礼しちゃいました~(^_^;)
いやいや、なぜ今朝、こんなことを言い始めたのか、ちょっと分ち合いたいと思います。

朝、ジョギングから戻って、静かな煌めきを感じながら、ゆったりと詩編119を読んでいました。そこでふと、「あれ?意味が分からない。」と気づいた言葉がありました。

「仰せ」「おきて」「戒め」「み教え」などです。

ダビデは、具体的になんの事を言っているんだったかな?


そこで、不慣れながら、KJV訳聖書で単語を調べ、さらにStrong'sのコンコーダンスでヘブライ原語の意味を調べてみました。

「仰せ」「おきて」「戒め」「みおしえ」に、ヘブライ原意をあてて見ますと、以下のようになりました。



詩編119編

65 よ。あなたは、みことば(親しく語り合う etcのとおりに、
   あなたのしもべに良くしてくださいました。
66 よい分別と知識を私に教えてください。
   私はあなたの仰せ(十戒の一つ)を信じていますから。
67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
    しかし今は、あなたのことばを守ります。
68 あなたはいつくしみ深くあられ、
    いつくしみを施されます。
  どうか、あなたのおきて(取り決め etcを私に教えてください。
69 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
  私は心を尽くして、あなたの戒め(神のおきて、法令、十戒)を守ります。
70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。
  しかし、私は、あなたのみおしえ(トラー=モーセ五書)を喜んでいます。
71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
  私はそれであなたのおきて(取り決め etcを学びました。
72 あなたの御口のおしえ(トラー=モーセ五書)は、私にとって
  幾千の金銀にまさるものです。

73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。
  どうか私に、悟りを与えてください。
  私があなたの仰せ(十戒の一つ)を学ぶようにしてください。
74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。
  私が、あなたのことば(親しく語り合う etcを待ち望んでいるからです。

・・・


どうですか?
ダビデが何を慕っているのか、具体的に分かりませんか (*^0^*)!?

ダビデは、神が直接くださった、「モーセの十戒」また「トラー(モーセ五書:創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)」を喜び、思いめぐらし、信頼し、もっと深く学びたいと願っていのだと理解できます。

私は、イエス様が何を喜ばれるのか、今朝、ダビデの歌から教えられました。


でも、なんか急に怒れてきました。
「トラーや、十戒がこんなに大切だったなんて!” 仰せ ” とか ” おしえ ” だけじゃなく、『トラー(モーセ五書)』『十戒』を指してる事が分かるように訳してくれたら良かったのにっ。ムカ~~!」
それで、ちょっとキツく書き過ぎちゃったようで、すみません<(^^;)

でも、些細なことかと思われるかもしれませんが、私は、聖書を8年、つまり8回は読んできましたが、具体的にダビデが「トラー(モーセ五書)」で養われていると認識したことがなかったのです。
今振返ると、ダビデは主と会話してる場面が沢山あるので、なんとなく、こう、特別な油注ぎを受けた人は、主から会話のように「啓示」されるような、霊的なコミュニケーションでの言葉(仰せ、戒め、みおしえ)のように理解していたカナと思います。

もちろん、私の読み方が良くなかったことは認めますっ。ハイ!
でも、具体的な、モーセ五書にタッブリと収められている「契約と法規」のことをダビデは愛しているのだと読み取れていたら、「トラー(モーセ五書)」へ認識は違ったものだったでしょう。

こんなこと、当たり前にご存知の方もきっと沢山おられると思いますが(^^;)、私は原意を確認した今朝、はじめて理解しました。

そして、認識した途端!
急に「モーセ五書」への親しみと恋しさが湧いてきたんです(>▽<)
これは、どういう事でしょうか!?
まさに、イエスの実体をつかんだように打たれました!

今は、創世記から、読みたくて仕方がないです。


もっと、もっと聖書を主イエスご自身を知りたいですね。ハレルヤ!




ご連絡〜♫   ※ 修正:9/15 記載場所を移動しました:)
Sojoumerさん!コンコーダンス活用していますよ\(^0^)/2回も郵便事故にあって入手するのに2ヶ月かかりました!その節は、お世話になりました(^^)

2013年9月3日火曜日

なんてことだろう…!

ちょっと、聖書を学んでいて、ショックだったので。メモ書き程度ですが、分かち合いを。

6月のミドラッシュのセミナーから、旧約聖書(本来は、旧ではなくタナクと言う。聖書の本体)の学びと、ヘブライ文化や思想から読むように、学びを始めて来ました。

ヘブライ的聖書の講釈をする講師の説教だけでなく、ユダヤ人ラビの福音書の研究書や、言語検証なども翻訳されたもので、手に入る物をできるだけ取り寄せています。(翻訳物は、ほとんどが古書しかなく、また絶版のものも多いので、そろそろ英文の原書を取り寄せて学ぶ必要になってる。)

ただ、それだけ調べただけでも、今までの聖書理解が、西洋文化や哲学、心理学に汚染されてしまったものだった事が確認でき、痛いほどいよく分かりました。
私は、まったく検討違いな所にいて、イエスを探してもがいていたのです!

私自身、御霊が内に住まわれている事は、間違いありません。それは、信仰的にも経験的にも確信があります。
でも、いのちを共にしているはずのイエスとのコミュニケーションが円滑でないのはなぜなのか。
イエスの実体に手応えが無いのはなぜなのか。それを見い出したかった。
正直になれば、みな同じ実体のなさを感じているのではないでしょうか?

私が、イエスに求めに求めて、今たどり着いたこと。
それは、イエスが生きられて、人々に直接語りかけられた、時代の文化、思想にまで立ち返ること。紀元前一世紀のヘブライ文化とヘブライ語、ヘブライ慣用句(「さじを投げた」とか「骨が折れる」のような文化の中で意味が知られているもの)を学んで聖書を読み、「理解する!!!」事が必要だということです。

新約聖書は、なんと言うか…、実は「上澄み」にすぎない。(「すぎない」は言い過ぎですが、思い切ってそう表現しました)

神ご自身、そしてイエスの実体は、ヘブライ聖書(旧約聖書)にあります。
それも、モーセ五書といわれる「トーラー」こそが、その本質。土台。
いや、「トーラー」こそ、主イエスご自身です。


※ 本来は、文献によって、それを説明すべきですが、今は、独白でお送りしております:)


「トラー(モーセ五書)」が、聖書の土台です。
旧約聖書とよばれるタナクの預言書や諸書は、すべてトラーを土台としています。
そして新約聖書とよばれる、イエスの受肉と、十字架と復活、それ以後のイエスとその弟子の働きは、すべて、タナクの成就として現在に至っているということです。

これは、ショックです。私は、ショックでした。

はじめ、人に聞いた時は、喜んでいました。鍵を見つけた!と、希望に沸きました。
でも、自ら調べ学んで、理解したとき、それは突っ伏すほどに、脱力するほどにショックを感じたのです。今までの9年近く、なんて無駄な足掻きをしたのか。すぐ、近くにあったのに、ずっと気づかなかった。

でも、これがスタートです。
事実を知ることは、的に向かう正しい道に立つ事を意味しています。

私たちは、聖書自体を自分の生まれ育った価値観で読んではいけなかったのです。
今までの自分はすべて死ななければ。
知識、経験、知恵。一度、捨てて幼子にもどる必要があります。

私たち異邦人は、古来より神により育まれた、古来より神によりその教えが温存されているユダヤより学ばなければならないと切に思いました。

もちろん、その中にも人の教えが混ざり込んでいることは現実であり、現状でしょう。
でもイエスを信じる者は、共同相続人の証拠として、御霊が与えられています。
御霊が見分けさせてくださる。なにも心配はいりません。

この、神の仰せに注目してみてください。


ゼカリヤ書8章


20
万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。
21
一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
22
多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」
23
万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」



私の心は、今この思いではち切れそうになっています。