2013年12月31日火曜日

ゆく年 2013年


2013年が、間もなく終わろうとしています。

皆さんは、どんな年でしたか?

私にとっての2013年は…。そうですね。
言ってみれば、「自分に与えられた命と人生を取り戻した一年」でした。

今までの私は、自分の人生なのに色んなものに振り回されっぱなし。
思考も、判断も、何かの影響をうけて、悩んでばかり。
本当に愚かな選択をしては周りに迷惑をかけたり、その刈り取りに苦渋をなめたりしていました。

今年、私の唯一の希望であった、聖書でご自身を現している神、救い主であるイエスの御顔をようやっと見いだすことができました。

今までの聖書の理解が全て崩れ去り、驚きと失望と脱力を味わいました。

そして、代わりに得たものは聖書の御言葉が今現在も生きていることを知った、驚愕と希望と喜び!

振返って自覚することは、私は9年間、キリスト教の中にいました。
しかし、私の内に生きている信仰のルーツは、ユダヤであるということです。

今、自分自身に与えられたものとして、私自身がこの人生の責任者であるという自覚が内に生まれました。それで、ようやっと私は、この人生を主イエス、すなわち「神のことば」その人に明け渡すことができるようになりました。

御言葉の土台が盤石であることの深い安堵は、本当に私が長年欲していたものです。

今、平凡な日々の中で、イエスの十字架によって新しくされた者として生きて行くことを学んでいるところです。新しくはじまる2014年、ようやっと主と向き合って生きられる!このことを心の底から嬉しく思います。
いやはや、本当にこんな日が来るとは…。感無量です。

今年一年を導いてくださった父なる神様に、心の底から感謝しています。




2013年12月25日水曜日

「聖書の基準」と「教会の基準」

先日は、以前所属していた教会が開催する、毎年恒例のクリスマスコンサートに行ってきました。

ほぼ毎週礼拝前や、礼拝後に兄弟姉妹との交わりもそこそこに練習に励んでいるクワイヤーの労が報われることは、私も嬉しく思います(^^)

兄弟姉妹と久々に会って元気な顔が見ることができて、とても嬉しかったです。
「あー、ポピー(ブログ主)元気だった〜(^^)♫?」と声をかけてくださる方もいて、本当に元気で温かい♡主にある家族を喜びました。

しかし…。
ココからは、”教会”の典型にむかついた本音トークっす…(怒)
人によっては、読まないほうがいいかもですゾ(-”-)

ここまでダイレクトに素直に言うヤツがいるとは思わなかったあのセリフ…。
それは、「”○○教会”を出た人」に対しての典型的な評価が、思わず素直に出てしまった兄弟の一言です。
兄「やあやあ、元気だった?」 
ポ「久しぶり!元気してますよ (^^)!」 
「へぇ〜ほんと〜?落ちぶれてるんじゃないのぉ〜?(悪気なし)」

でたぁ…!クラクラ〜ッ(*3*)コレなのです。コレ!
シクシクシク(T_T) 情けないっ…。もうね。いい加減、こういうの止めましょう?


うちの教会に集っていれば、祝福される。うちの教会は正しい教会。
うちの(牧師)先生は、他の先生たちよりも良い。正しい。祝福されてる油注がれた器…etc

そして、反対に、別の教会に行く人には「問題」があって、出て行く人、来なくなる人は、人生が悪い方へ行く(呪われる)。

それで頭を打って悔い改め、放蕩息子みたいに落ちぶれて、泣きながら「ごめんなさい。悔い改めます。」って”牧師”にすがりついて戻ってくる…という ”思想” です。

兄弟よ。分かってますよ。あんさんは、もちろん悪気もないし、それが親しい愛情表現の一つだという事も…。

そして、”○○教会” に休まず集っていると、そういう思想がいつの間にか頭のなかに生じてしまうのですよね。実際、私もそのように思っていました。

いなくなる人がいれば、皆この思想をベースとして話していました。
自分たちの  ” 教会 ” の方にこそ、彼らを居づらくした問題があるのでは?とは、かけらも思わなかったのです。

自分が ”○○教会” 出る事を悩むようになって、初めて居なくなった人々の胸の内、その一人一人が事情と悩みを持っていたという現実を、私自身まるで見ていなかったことに気付くことになりました。

たまに、牧師がその人の事を解説するのを聞いていたので、自分も来なくなったらこんな風に、牧師目線の診たてを人々に話されるんだろうか…?と思ったものです。
「”問題”をそのままにしているので、いずれ頭を打って戻ってくる。その時は、前よりひどい状態になっている」
ああ、そんなこと聞いたら、恐怖の動機づけされちゃうの当然でしょう。


さて、しかしこの ” 思想 ” の本質って何でしょう?それは、聖書に照らしたときに、恐ろしいものです。
これは、典型的な ”○○教会信仰” です。「○○教会 ”教” 」もしくは、そこの指導者対象の「○○牧師 ”教” 」ではありませんか。

大げさですか?
単純に、「教会のことを大好きな、牧師思いの微笑ましい信徒なだけじゃないのかな?」と思われますか?

いいえ、これは本質的には分裂です。(Ⅰコリント1:10〜13)
「○○先生につく」「△△先生は油注がれた器」「□□教会は主に祝されている」
他教会の兄弟姉妹との交流に良い顔をしないのが、ひとつの証だと思いますがいかがでしょう。

しかも、それには「祝福」「呪い」が伴うと思っているならば、これは紛れもなく「偶像礼拝」ではないでしょうか。

なぜなら、祝福と呪いは、Torah(トラー:モーセ五書)に明らかにされている「神のことば」「神ご自身と交わしている契約」に、一人一人が聞き従うかどうかの結果です。
その契約、すなわちシナイ山での「婚姻契約」は、今現在も変わらず有効である事を知る必要があります。

そして、私たち異邦人は「神のことば」そのものであるイエスを信じる「信仰」によって、その契約の祝福は今ここに、すでに与えられているのです。

私たちは、すでに神の教えであるTorahを「生きる」ように、修復されています。
イエスによってです!
その事実を私たちは、日常の日々の中に発見する事こそ、最優先に大切なことではないでしょうか。

”○○教会” に集うから?奉仕を熱心にしているから?十分の一献金をちゃんとしているから? 教会行事にことごとく参加しているから? ”牧師”に忠実だから? 祝福されるのですか。
愚かしい事です。そんな基準はありません。

むしろ、これら教会ごとには熱心でも、「神のことば」に熱心でなかったら、「神のことば」であるイエスと、何の関係がありますか。

今回の牧師のメッセージのように。(←いやみ)

集う群れは、どこでも良いのです。「母教会」という概念は日本特有で、聖書にはないものです。

イエスを信じる者は、神のことばにその基準を置きたいものです。


詩篇 46:10 
「やめよ。 わたしこそ神であることを知れ。 わたしは国々の間であがめられ、 地の上であがめられる。」



恐れるべきお方を恐れましょう。そこには、求めている安息と自由があります。

聖書を愛し、御言葉を愛し、イエスを愛する兄弟姉妹と共に集える日がくることを願っています。


2013年12月23日月曜日

喪中の家で永遠を思う


伝道者の書 7:1〜4
 
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。 
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。 
知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。


先日、父の兄である叔父が白血病で亡くなりました。
私は、長女であるので、この土日は納棺から、初七日まで全てに参加しました。

叔父は、生前私たちの町会議員を勤めたり、福祉活動に協力したり、地域にとても貢献した人でした。それで、今回の通夜や告別式には、今まで見た事のないほどの沢山の人々が来てくださって、正直、驚きました。

私は叔父について、中学校くらいの時期の記憶しかなかったです。
車で5分の近所に住んでいながら、…いや、むしろ近所だからか、叔父が地域において、どんな貢献をしているか、また苦労をしてるかも、全然知りませんでした。

また、お手伝いの青年が50人以上集まっていて、手際よく準備をしています。
「消防団とか青年団とかの方かな〜?」
と、思っていたら、それは叔父の子供たちである、私の従兄弟たちの高校の友人たちだそうです。新聞で見て、自発的に集まっているのだそうです。それが普通なのだとか。

私なら、そんなふうに友人たちがお互い自発的に集まるなんて事はありえません…。
ずっと地元で生活し、その地域の活動に協力して、少しずつ絆が育まれていたからこそなのだろう…と、親族たちが話していました。

今まで「”教会”中心」なんて”宗教”してきたこと、疑問に思って長らく悩んだ期間…、本当に時間を無駄にしてしまったことを悔やみます。

聖書の言う、神の単位は「家族」単位。「家族中心」です。
もっと早くに親族や地域に目を向けて、交流をもつ必要があったと思いつつ、今からは、家族、親族、地域を大切にしていくことに喜びも覚えました。


私の地元は、葬儀の時は明るく楽しく盛上がるのが習わしのようで、久しぶりに集まった親戚と、そりゃまあ大いに笑い、盛上がっていました。火葬の時までは。

告別式が終わり、火葬の順番がきて、皆で棺桶の遺体に花を添えていきます。
そこで初めて、みな静かに涙を流していました。父は、じっと叔父の顔を見つめていました。
皆で遺体の横たわる棺桶を火葬場に運びました。

静かに、棺桶が火葬炉に入っていきます。
扉は、ゆっくりと閉まっていきますが、扉の閉じる最後の一瞬は、なぜかドキっするように早く感じました。
控え室で待つ時になって、ようやっと人の一生涯の儚さを突きつけられたようでした。

私たちの一生涯は、本当に儚い。
日々にあった、喜びも悲しみも、悩みも安堵も、苦労もその報われた満足も、存在する理由はなんであっただろう…。部屋にかすかな空しさが漂いました。

本当に大切なこととは…。

それが、ふと永遠を思うとき。それが神に気付くときのよう。
人知を越えた、大きな営みの有無を、思い巡らすときのように感じました。

そこには、静けさがありました。


詩編 90:10-12 
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください

2013年12月22日日曜日

「楽しいクリスマス♫」そのルーツを知る



明日は楽しいクリスマス〜♫
この時期は日本だけでなく世界の多くの国々はクリスマスの雰囲気で包まれますね。
街も、家庭も、テレビやラジオも雑誌もクリスマスの話題で持ち切りです。

私も、小さい頃からクリスマスを楽しみにしてました。
手作りの家族パーティと、「真っ赤なおっはっな〜の〜♫」と歌いながらの家族全員でのプレゼント交換(^^)☆夜、お布団に入ってからは、一生懸命、目を開いてサンタクロースを見ようと頑張ってました。朝起きたとき、目に飛び込んでくる大きなクリスマスプレゼント!外は、輝くホワイトクリスマス…!!ああ、なんて楽しい思い出でしょう!


でも、聖書を神のことばと信じるようになってからは、気付く限り、様々なイベントのルーツを確認するのが習慣になってしまいました…(^^;)

そこで、クリスマスを楽しみにしている方々には、水を差すお話ですが…。

クリスマスのルーツをご紹介下さっている友人のSojournerさんの記事をご紹介します。


特に記事中のリンクを是非ご確認ください。

記事中、陰謀論でおなじみのイルミナティとかは、個人の好みにお任せしますが、興味ない方はスルーしてくだされ。

クリスマスにお馴染みの、「サンタクロース」や「もみの木」、「聖母子像」などのルーツについて解説している記事は、非常に分かりやすいかと思います。



「‘神の戒めを捨てて・・’」http://ameblo.jp/pupil0814/



私のなじんできたサンタクロースは、素敵な優しいおじいさんで、大好きでしたし、今でも見ると和みます。
しかし、現在の私は「サンタクロースよ!おまえもか!!!」ですっ(T◇T)

ルーツを知り、それが全て虚像だったと知り、かつそれが偶像礼拝となっていると知ってしまったら、それを無邪気に続けるのは困難なことです。

教会などでは、世が肯定しているクリスマスを良き機会として、主イエスを伝えるイベントを開催するところが沢山ありますね。

でも、教会は神のことばを委ねられた群れです。
自由と喜びにあふれながらも、大きな責任が委ねられているのも事実です。

ぜひ、ルーツを確認した上で、どう対応するよう、御言葉が告げているか、イエスを愛する一人一人が、自分で聖書を開いて、主ご自身にご確認頂けたらと思います。

明日は、以前所属していた教会のクリスマスコンサートに行く予定です。
ただただ、兄弟姉妹の元気な顔が見られる機会として心から楽しみにしています(^^)

しかし、私は聖書にご自身を余すところなく現しておられる主イエスご自身を岩とし、土台として御言葉の内に生きる事を選びます。

メシアの与えて下さっている、溢れるいのちを守りたいからです。



ヨシュア記 24:15 
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」


2013年12月16日月曜日

家族の和のあたたかさ

みなさん、お久しぶりです(^^)
だいぶんご無沙汰しておりました。

この1ヶ月ばかり、日々を堪能しておりました。

ジョギングを本格的に再開したり、友人の英会話教室の発表会のお手伝いをしたり、会社の同期たちと年末ジャンボを共同購入して、アホな想像を楽しんだり…♫

英語をマスターするために、学習も始めました(^^)b
英語は以前からその必要性を感じていましたが、外国人の友人もできたのと、聖書を学ぼうという方々が、片言でもみんな英会話ができてるぅっ(*▽*)!!という事に刺激をうけました。
また、聖書を学ぶ資料も、日本では残念ながら文献が本当に希少!海外文献が読める必要がありますね。
そんな訳で、英語の得意な友人に励まされながら、来年からはTOEICをうけて、上達を目指していきま〜す(^▽^)/


さてさて、そんな感じで楽しく日々を過ごしておりました。
ずっと実家に滞在していた甥っ子Babyたちは、段々首も座ってきたので自宅に帰ってましたが、とはいっても週に少なくとも3日はきてるので、とてもにぎやかです。
家族でワイワイやるのは、本当に楽しいものですね(^^)

でも、ちょっと困った事が…。ヤツら、病気のときにもしっかりコチラに来て療養するので、風邪とかやたら、もらってしまいます(>0<)
昨日は、胃腸風邪ダ〜!これは辛いですね〜〜。
シンちゃん(0歳)から、ウチの母へ。そして、先日わたくしへ。

ホント、きついわ〜。
胃腸が弱って、寝返りするのも、ソロソロとしないと悶絶しちゃうんですよ。
それに病気の時って、いろいろと嫌な事を考えちゃったりしませんか?


今回は、そんな時に、ありがたいものを色々発見しました。


1)ORS(経口輸液オーアールエス)

体液に近い成分に調整されたボカリスェットの薄い奴みたいな飲料。
お水だと、胃腸に重くて、チビチビとしか飲めないのですが、ORSだとスーっと飲めます。そして、すぐに汗が出だして、楽になります。
私は主に白湯を飲むのですが、ベット脇に置いておくとすぐに冷えたお水になってしまうので、冷たくても飲めるORSは、ありがたかったです(^^)b


2)おかゆ

さすがは、世界に誇る療養食!!!
段々、回復してきて、食事を取る気になったときに、本当に薄くてお塩も少しの温かいお粥を頂きました。よく噛んで、胃腸に負担にならないように頂きましたが…、お粥は効く!!!
食後に一寝入りして、起きた時の身体の楽なこと〜 ♫
また、お粥の他にも、甘酒も食べる点滴と言われるほどに、理想的な栄養飲料とのこと。
う〜ん、日本料理って素晴らしい…と、改めて感動〜♫でした(^^)


2)黒猫のジジ

私にやたら懐いている、黒猫のジジちゃんは、意外に癒される〜。ず〜っと、一緒のお布団でねてました。ありがとよ♫
罪のない被造物である動物たちは、変に悪い事を考えがちになる時に、とても助けられる存在ですね。動物は、アダムがエバを得る前に「助け手」として神様がアダムのそばに連れてきたものですね。でもそこには「助け手」として充分な者が見つけられず、神様はアダムの肋骨からエバを作りました。
男と女が二人で一体となる素晴らしい奥義に感動する場面です。

でも、動物たちにも目を止めたいものです。彼らも「助け手」として、私たちのそばにいるのですね。私は、家族として沢山の動物たちと一緒に過ごしてきました。
ニワトリ、猫、うさぎ、犬、金魚、インコ、ジュウシマツ、九官鳥、ランチュー、ハト、雀、サギの子 などなど。みんな、家族として、かけがえのない子たち。
色んな事で助けられたり、学ばされたりしましたよ(^^)


3)床

あはは!これ、ただの床です〜。でも、冷たくて気持ちいいの。
おトイレからでて、ぐったりしているときに、床で寝るとヒヤ〜っとして、楽になるんですよね。でも、見られるとビックリされること必至なので、こっそりヒエヒエ♡してから、すぐにベットに戻りました(笑)


4)家族の笑い声

やっぱりダントツはこれでしょう(^^)!
日曜日の夕食は、妹たちの家族も全部そろっての恒例お食事会です。昨晩は、お好み焼きのご様子。良い香りがしてました〜。
今回は、みんなに風邪をうつさないように、またほぼ「貞子」(←鏡見てビビった)みたいな容貌になってるのを見て、気を使わせないよう、2階の自室で大人しくしていましが、家族の笑い声は本当にありがたいものです。
一緒に居なくても、自分のその家族の一員だと分かっているからですね。ウ〜ンウ〜ンとベットでうなっていても、私もその和の中にいるのでした。
これが「家族」というものなのかな。と思いました(^^)


こんな、平凡ですが、今ここにある恵みを覚えていると、ふわふわと浮かんでくる嫌な事も、気にならなくなってくるのです。

胃腸風邪はしんどかったけど、どんなときにも、神様が見ていてくださることの平安と安息を新たにした療養記でした〜(^^)/