2013年6月26日水曜日

March for Jesus 2013 〜マーチ フォー ジーザス〜

みなさん、March For Jesus(マーチ フォー ジーザス)をご存知ですか?

6月8日(土)に、名古屋市 栄 の久屋広場で、第4回目の「March For Jesus」が行われました。

マーチについて、ウィキペディアからの抜粋です。
マーチ・フォー・ジーザス(March for Jesus)は、クリスチャンが行進する超教派のイベント。始まりは1987年にロンドン。三年間で英国、ヨーロッパ、北アメリカ、そして世界中に広がる。 
 1994年に最初のグローバル・マーチ・フォー・ジーザスがすべての時間帯を覆い、170カ国の1000万のクリスチャンを合同して行われた。最後のグローバル・マーチ・フォー・ジーザスの2000610日までに、総計6000万の180カ国のクリスチャンがイエスのために歩いた。 
 しかしながら、2000年のマーチの組織解散。その後もマーチ・フォー・ジーザスは、様々な指導によって多くの国々で継続されている。  
日本では小坂忠がディレクターを、1993年から2000年までつとめた。

この時代のマーチはポピーは全く知りませんが、大きなムーブメントだったようです。
日本でのマーチは、2009年に以下のような思いで再開されました。
「マーチ・フォー・ジーザス」とはどういう意味を持っているのでしょうか。 
私たちは、…「イエスがこの街の主であり、この国の王である」ことを宣言するためパレードを行います。信仰の行動としてパレードを行い、日本はイエス様のものであり、祈りで、この国を縛っている偶像礼拝のチェーンを霊的世界で壊すのです。 
我々クリスチャンが立ち上がり、イエス・キリストがこの国の神、そして主である事を表明する時です。 
私たちは、日本を愛しています。しかしながら、毎年いろいろな祭りが行われている中、クリスチャンは次第に、教会の中で内向きな信仰に傾きやすくなり、恐れを抱いてしまっています。私たちクリスチャンは、神の力と愛を持っています。 
このマーチに参加して、一緒に宣言しましょう。あなたの人生は新しく変えられるでしょう。そして日本も新しく変えられます。 
ぜひマーチでお会いしましょう!


2013年のマーチの案内


ポピーは、この2009年の初回に参加しています。大雨でしたが、2000人ほどが集まり、雨の中マーチしました。この時、ブラジルの方々が日本中から集まってきました。(参加者はブラジル人:日本人=7:3くらい)大阪からみんなで乗り合いで来たという方々は、喜びで興奮していて、またとても嬉しそうでした。

色とりどりの旗やプラカードを手作りしてきていて、その意気込みに驚いたのを覚えています。私はよく分かってなくて、手ぶらだったので(^^;

賛美、メッセージ、お祈りのあと、名古屋 栄の繁華街を「イエスはあなたを愛しています!」と伝えながら、2000人ほどが隊列をくんで、マーチします。

キリスト教メディアでも紹介されました。
http://www.revival.co.jp/2012/07/post-241.php (レポートは発起人のサントス牧師)


私は、2009年、10年、11年と参加しました。12年は主イエスとの関係を深める事の大切さを覚えさせられていて、イベントにはいっさい参加せずに主を求めていたので、マーチも不参加でした。

そして、今年。天気も快晴!しばらく曇りや雨だったので、マーチ日和です。




開始前。ぞくぞくと集まっています。

さて、マーチのイベントが始まりました。


しかし…。
なぜでしょう?私は、以前のようにこのイベントを手放しで、喜べなくなっていたのです。うまく言葉にできませんが、目に見えて違和感を覚えた事を上げてみますと、こんな感じでしょうか。

・賛美は、コンサートのようなステージや、ヒップホップのようなダンスです。キリストと世のエンターテイメントと関係が持てるのでしょうか。
・クワイヤーの賛美がありましたが、楽器やソロの方々の音響が大きすぎて、まったく聞こえません。
・ブラジルの方々のテンションにあわせようとする日本人司会者の方々。テンション上げていきましょう!的な司会は、無理をしていることは明白です(悲)「フォー!」「イエー!」うぅ…(T_T)要りますか?????
・マーチを送り出した後も、大音響のドラムやギターが、あおり立てます。ステージからは、かなり離れているのに、隣の人と会話もできません。暑い日でしたが、熱中症よりも先に爆音で心臓がやられそうでした。さすがにグッタリ…(==;


以前は、それは元気が良くて、祝福を表しているんだと思って(思い込もうとして)いました。一緒に「イエーイ!」ってやっていました。客観的に見る事ができず、都合の悪い事は見ないようにしていたように思います。

でも…、今はもう無理です!イエスが中心か?人が中心か?気になります。
どうしても全体がイエスのものだったとは、私は思えなかったのです。

マーチ自体、きっと初めはイエスへの純真な思いから出てきたものだったのでしょう。
また、ブラジルの方々は、年に一度、ブラジルから来ている兄弟姉妹と、キリストにあってマーチできることは、とても意義のある事なのかもしれません。ブラジルの方がテンション高いのも国民性ですよね。

問題は、私たち日本人です!
カーニバルみたいな文化のない私たちが、ブラジルの方に合わせて無理してテンションを上げても、それは聖霊による喜びとはほど遠い、まさに” フェイク(にせもの) ” ではないでしょうか。無理してるって、案外 見てて分かりますよね…?

たしかに、内向きになりがちな日本の教会には、外向きになる良い機会になるかもしれません。でも、だからといって、マーチに参加することで、本質までは変わりません。一週間後(いや、ほんの数日)には、ただの日常に返っているでしょう。

私は、イエスの証は、静けさから来るように思えて仕方ありません。

大きく、派手にイベントをすれば、気持ちも高揚し、証もできるような ” 気分 ” になります。「みんなで渡れば怖くない。」って感じでしょうか。

でも、日々の日常の中で、イエスのいのちによって生きる事のほうがずっと大切で、かつ影響力のある事だと思うのです。そこで初めて、証が生きるのではないでしょうか。

地の塩、世の光であるのは、日常の中。いつもの隣人、家族、友人、職場の中でこそ求められている事だと思わされます。

決して、マーチが不要だと言っているのではないのです。マーチ自体は良いものです。
また、喜んで参加している方々も一人一人の信仰で参加されているので、なにも問題はありません。

ただ、喧騒が際立ち、興奮があっても平安がないなら、なんの証になるのだろうと思うのです。

人々の関心を真にイエスへと導くのは、平凡な日常の中に溶け込み、十字架によって新しくされた者として、主を知り、肉ではなく、御霊によって歩むことだけが、求められているように思います。


ヨハネ3:30
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。


主イエス・キリストとその十字架が、人々に証しされますように。


2013年6月22日土曜日

ミドラッシュの学び② 〜弟子とパリサイ人〜

<お願い>
ポピーはだたの一信徒です。内容はどうぞ御言葉の理解の「きっかけ」とご理解下さいますように。ご自身で聖書をめくり、主イエスと共に調べ、学んでくださいね。 



まずは、ミドラッシュを説明する前に、聖書を正しく解釈することの大切さを確認します。

福音書を読みますと、弟子とパリサイ人が出てきます。

弟子は、主に無学な漁師たち。もちろん聖書 ※ は、幼い頃から教えられて知っていますが、正規で学んでいない人々です。

一方、パリサイ人は聖書の専門家で、学者で、弁護士のような感じ?とにかく聖書に精通し、なおかつ実践(” 行い ”だけは)していた人々。(聖書も暗記してて、数人あつまれば聖書一冊が暗唱できたとか!)

※ 聖書:  
福音書の時代の人々の言う「聖書」とは、私たちがいうところの「旧約聖書」のことです。当時は、タナク(タナハ、タナフ、Tanakh)と呼ばれていたそうで、ヘブライ語で書かれています。 当然、新約は含みませんよ。まだ、ありませんもんね(^^)「聖書」は3つの部分に分かれています。
 Torah(トーラー:モーセ五書)
 Nevim(ネイビーム:予言者)
 Ketubim(クトビーム:諸書)
タナクは、この3つの部分の頭文字 TNK に母音をつけて読んだものです。

さて、イエス様と彼らのやり取りを見てみると、弟子たちは「たとえ話」を理解できていませんが、パリサイ人たちは、どうやらすぐに分かったみたい。

マタイ15:11〜20 を確認してみてください。

ペテロたちは、理解できなかったので、説明をお願いしていますが、パリサイ人たちは怒ってしまいました。意味が理解できたのです。

マタイ21:45 

ここでも、すぐに自分たちを指している事に気づいています

マタイ27:62〜64 ここでビックリです!

パリサイ人たちは、イエス様が「自分は三日の後によみがえる」と言っていたと言って、ピラトにお願いごとをしています。
でも十字架で殺されてから三日でよみがえる事は弟子たちにしか話していませんよ(他の福音書も確認してみてくださいね)

彼らは、『神殿を三日で建てる』という話から、「神殿」は「身体」のことを指してるのだと分かったのです。だから、神殿の話しか聞いていないのに、思わず「あの人をだます男が、三日の後によみがえると言ってましたっ!」と言ってしまってるのです(笑)!

一方、弟子たちですが、イエス様が復活されてから、弟子たちの心を開いて聖書を悟らせてくださるまでは、(イエス様が呆れるほど)分かっていなかったのです。(ルカ24:45)

弟子たちが聖書を理解できなかった理由は二つあります。

理由その1)
心におおいがかけられているから(Ⅱコリント3:14-15)でも、それはパリサイ人も同じです。

理由その2)
聖書をどう理解していいのか分からなかったから。
それは、パリサイ人が知識の鍵を持ち去り(ルカ11:52)独り占めしていたからです。パリサイ人は言いました。「…律法(トラー)をしらない群衆はのろわれている!」(ヨハネ7:49)と。そのとおり!実際に、聖書を理解していないペテロたちはのろわれていたのです。

救い主について知らせている「聖書」(の知識)を人々に教える責任を果たさず、独り占めにしている態度に、主イエスは厳然たる怒りの態度を示されました。

牧者(パリサイ人)たちは、羊(ユダヤの人々)たちに青草(みことば)を与えて養っていなかったのです。青草(みことば)を自分だけのものにして肥え太り、羊を飢えさせていたのです。(エレミヤ、エゼキエル 他にも牧者への厳しい警告が沢山ありますね)

イエスはパリサイ人たちから鍵を取り上げて、純朴に神を求めた「ただの人々」にその鍵を渡されました(マタイ16:19)そして、主がよみがえられて後、聖霊がくだったとき、ペテロたちは御霊によって聖書の明確な理解を持つようになりました。
それは書物の理解を越えて、世の初めから隠されていた真実を知り、御霊によって主の権威を行使できるようになったのです。

私たちが、主イエスとともに生きるためには、聖書の知識聖霊のお働きが必要です。

知識の鍵「聖書」を正しく知る事なく、今までの人生の習慣や文化、常識で読み取っては、間違ったイエスを全くの見当違いに追いかけることになりかねません。
それは、むしろ福音を知らない方が良かったのでは、というほどに苦しい人生となるでしょう。

私たちは、聖書を正しく知る必要があります。

主イエスが、そしてパウロが読んでいたように聖書を読み解き、主イエスに近づき、ますます主を知って参りましょう!

パウロを通して、主イエスからの勧めのことばがあります。

Ⅱテモテ3:15-17 
15また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 
16聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 
17それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

ハレルヤ!父なる神よ!
神の宮である私たちキリストを愛する者の内に、主イエスがますます形作られ、主のみこころがこの地で成りますように!




モリエル・ミニストリーズ「説教集」( → コチラ ) でより詳しい内容が掲載されてます。
また、みことばを正しく知る事の喜びは、ブログ「Mi Kedam 私たちは どこから来たのだろう?」( → コチラ )でもご紹介されています。目が開かれます(^v^)ご参考に!



2013年6月17日月曜日

ミドラッシュの学び① 〜参加してきました!〜

みなさん、「ミドラッシュ」ってご存知ですか?

私は昨日、モリエル・ミニストリーズ(こちら)によって行われた、「ミドラッシュセミナー」に参加してきました。

まず、案内にあったミドラッシュの説明をご紹介します。

ヘブライ人の世界観を使って聖書をより深く知ろう

私たちはクリスチャンとして、聖書をより深く理解したいと願います。しかし西洋のクリスチャンは『ギリシャ的』な世界観をもっており、そのために聖書の教えがぼやけてしまうことがあります。

ヘブルの本をしっかり理解するためには、ヘブル人のように読む方法を学ばなくてはなりません。一世紀のヘブルの聖書解釈法は『ミドラッシュ』と呼ばれています。

このセミナーでは、聖書に関するヘブルの世界観を見ていきます。そして、イエス様、使徒たち、一世紀のユダヤ人クリスチャンたちがどのように聖書を読んだのかを考察します。その基礎的な手法のいつくかを紹介します。

 ●聖書箇所の規則性をどう識別するか

●関連箇所をどのように見つけるか(これはとても重要です。よく見逃されがちな点です。) 
●理解しにくい箇所を紐解く鍵となる一見変わった表現をどう識別するか 
●旧約、新約をお互いの光に照らしながら、どのように読み、解釈することができるか 
難しそうに聞こえるかもしれませんが、聖書に慣れ親しんでいる私たちには、実際は至ってシンプルです。このセミナーを通して、御言葉を愛する皆様が、今後の聖書の学びに役立つ実用的なコツをつかんでいただけることでしょう。


実は私、「ミドラッシュ」って注解書のような書物をイメージしていたんです。
でもそうではなく、ざっくり表現すると神の意図のぎっしり詰まった聖書から、神の伝えたい事を読み取るための「読み方の手法」だということのようです。

よく「聖書の行間を読む」って教えられませんでしたか?
私は正直、実際にはどうすれば良いのか分かりませんでした。全体の文脈を踏まえながら、意図を読み取るような事かな〜?という理解でした。

また、「聖書は聖書によって説明される」…、だったかな?そんな意味のこと、聴いた事ないですか?
私は新改訳を使っていますが、各ページの下方に「欄外注」があります。そこに、節ごとに関連する別の聖書箇所が記載されているので、そこを見れば互いの意味が相互説明されるのかな。と、理解していました。

おおよそハズレではないのですが、これらは正しい読み方の一部分。エッセンスだけだったようです。ですので、みことばへの意欲はあふれんばかりにあるのに、なかなか聖書をとらえきれないフラストレーションがありました。
沢山の信仰の先達、聖書教師たちが残してくれた、優れた信仰書も沢山ありますが、はたしてその通りかと聖書を調べても(使途17:11)、しっくりと理解できなかったのです。

もっとイエスを知りたい。神のことばである聖書を深く掘り下げる必要がある。そこに宝があるように思えて仕方がない。どうか、その宝をもっと見つけだせるようにと願い、求めていました。
2年近くです。色々なことがありました。それは、とても長く感じられる時間でした。

モリエル・ミニストリーズを知り、このセミナーがいきなり地元名古屋で開催される!
もしかしたら、祈りの答えが、ココにあるのではないか…?

そう期待しながら、参加してきました。

次回より、メモをまとめながら、分かち合いたいと思います。



〜つづく〜

わたしの「からし種」③

「その箇所なら知っている!ヨハネの福音書1章だっ!」
急いで、聖書をめくりました。

ありました!ありました!ヨハネの福音書1章14節です。

ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そうです。 このみことばです!すごい…。イエス様、教えてくださったんだ。
1章の始めから確認しました。


ヨハネの福音書1章 
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 
2この方は、初めに神とともにおられた。
3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4この方いのちがあった。このいのちは人のであった。 
5はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7この人はあかしのために来た。についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
8彼はではなかった。ただについてあかしするために来たのである。 
9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。  
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ああ、なんてことでしょうか。私は、真理を垣間見たのです。
この世界は、イエスによって作られたのです。イエスはこの全世界の主です。

この1章は、何度も読んだ事がありました。1年に1度、聖書を通読するので、少なくとも4年間の間、聖書の箇所として十分認識していたのです。
けれど、この時みことばは生きたものとなりました。

ことば!ことば!イエス様は、神様のことばが人となられた方だったのです。
ことばはその人格の出現です。ことばはそれを発した方そのものです。
イエスは、神そのものだったのです。

ああ、うまく伝わるでしょうか。
私たち人間の知性では理解できない事です。私は理解していませんでした。
しかし、その時、私ははっきりと知ったのです。それは、知識ではなく、私個人の ” 経験 ” となりました。

聖書の始めから「ことば」という箇所を確認しました。
そして私は、聖書のみことばが、その全てがイエスなのだと理解するようになりました。
聖書のことばは、なにひとつ侮れない。その全てに偶然はない。すべてに何かの意図がある。
この時から、これが、みことばに対する揺るぐ事のない、私の根本姿勢になりました。


そして、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」このみことばこそ、主イエスが私のうちに蒔いた信仰の種、「からし種」です。
1mmほどの、本当に小さい。けれど全く混じりけのない純粋な信仰の種なのです。


いま、聖書を読むとき、私は活字を読んでいるのではありません。
一人、静かに心静まり、聖書を食して(読んで)いるとき、その文字から、イエスの息吹を感じるかのようです。私は自分の呼吸とともに、イエスの息吹を吸い込んでいます。






わたしの「からし種」②

しかし、その答えは、意外にあっさりといただけたのでした。


当時、私は「テーマを決めて、聖書を調べる」ということをした事がありませんでした。ですから、単純に聖書を「前から順に読む」という通読をしながら、イエスに尋ねました。

「イエス様〜、私は父なる神様とイエス様の関係とか違いとか、実は良く分かりません〜。イエス様はそのこと知ってらしたんでしょう?今までは分かったフリをしていましたね。ごめんなさい〜。分かりたいので教えてください〜。」

そんな、祈り心をもちながら、聖書のみことばから語られるのを待っていました。
尋ね続けて、答えられるまで気長に待っていた方がいいナって、なんとなく思っていました。そして同時に、必ず理解するようになるだろう…、とも静かに確信していました。

朝は、「今日は教えて頂けるかなー。」と期待して起き、同時に「ダメかなー。」とも思っていました。
駅まで歩きながら、仕事しながら、ご飯食べながら、お風呂はいりながら「父なる神様と、イエスさまの違いは〜〜〜」…と、意識している限り、覚えてる聖書箇所を思いめぐらしていました。(力んではいませんでしたよ。結構リラックスして、フワ〜っと思いめぐらしながら、語られるのに耳を澄ましているようでした。今思うと。)
そして、聖書を開き、語られるのを待ちつつ、読み進めていました。


そんな事を3日ほど、続けていた、ある晩のことです。

お布団で、聖書を読んでいましたが、もう23:30。あ〜今日もダメだったかと思い、
「イエス様〜、もう眠たいので寝ますね。また明日、教えてくださいね。おやすみなさ〜い。」
そう、心の中で祈って、電気のひもに手を伸ばして立ち上がった時です。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。』

とハッキリ語られたのです。
ん〜〜〜それは、聴いたというか、感じたというか、見えたというか、それは分かりません。でもいきなり、そのことばが私のうちに?頭に?意識に?知性に?よく分かりませんが出現したんです。

「えー!!ことば?イエス様はことばなのですか?」

それは、ヨハネの福音書1章だったじゃないですか!?

急いで、聖書をめくりました。

〜つづく〜

わたしの「からし種」①

私の内に「からし種」の信仰があります。と、お伝えしました。
その「からし種」について、お話したいと思います。


もう、これからは分からない事があれば、まず聖書を開いてイエス様から直接!教えてもらわないといけないんだ。人に頼ることをやめ、まずはイエス様に聴いていこう。そう思い始めた頃の事です。
いまから4年前になります。教会に通い始めてから5年目ごろの事でした。これが、主の訓練の始まりだったのかもしれません。

「三位一体」って、ご存知ですか。聖書は、神について

 1.父なる「神」
 2.父なる神の ” 言葉(ロゴス)” である、子なる神「イエス・キリスト」
 3.” もうひとりの助け主 ” である「聖霊」

この3つの位格がすなわち、全世界の創造主である、ただお一人の「神」であり、永遠に存在するお方であると知らせています。

(私は、イエスを愛するただの一信徒で、神学校で正規で学んだ事もありません。もっと知りたい方は、コチラ ” 聖書のキーワード →「神とは」” に分かりやすくまとめて下さってますので、ご参照ください。)

さて、始めの頃、私は「神は三位一体」だと教えられ、また聖書を読んでも確かにそう読み取れるので、「そーなんだな〜」くらいに思っていました。

でも実際問題、困った事態がおきました。神の愛によって苦しいところを通らされ、祈る必要に迫られたときに、ふと気づいたのです。

『…あれ?えーっと、私は「神様」に向かって祈ればいいのですか?それとも「イエス様」に向かって祈ればいいのですか?』

あらまー、ぜんぜんイエスを分かっていない、自称「クリスチャン」ですこと!
でも、残念ながらそれが私の状態でした。
それで、よく5年も教会に結びついていたものです。神様の哀れみと忍耐には…、感謝しかありませんね。

牧師にも、バイブルスタディなどで質問した事もありました。「役割が違う」ということでご説明いただきましたが、実際のところは知性では「そうなんだ。」と思っても、その真理が私の内に生きてはいませんでした。

でも、まさに今こそ!直接イエスに尋ねるときではないですか!!

なぜなら、聖書は神の御霊によって書かれ、その著者である御霊(聖霊)がイエスを理解するための助け主として、私のうちに住んで下さっているわけですから!

私の「はじめてのおつかい」ならぬ、「はじめての主イエスとのサシでの対話」が始まりました。

〜 つづく 〜

2013年6月13日木曜日

被造物の輝き

紆余曲折を経て、4月から今の職場に通っています。
その職場のすぐ横には、とっても広くて緑の木々いっぱいな公園があるんです。
一回りするのに30分ほどかかる、ゆったりした素敵な公園で、お昼休みにウォーキングしてます。


小川もつくってあって、いろんな鳥たちが仲良く水浴びしています。
奥にマンションが見えますが、とっても街中なんですよ。
でも、木陰や水辺は涼しくて、空気が澄んでいます。
木々のざわめきに風の音がとても心地よくて、思わず深呼吸〜♪




そして、なんとビックリ!
鴨の赤ちゃんの誕生にも遭遇!この写真で見えますか〜〜(^^;
わお〜♡ 手のひらよりも小さ〜い、小鴨ちゃんたちです。

お母さんの周りをクルクル泳いでマス ♪
(水はちょいと濁ってますケド〜)

小さくても足には、ちゃ〜んと水掻きがついてるし、植木鉢の上にちょこんと乗って、お水もコクコク飲みますよ。
いや〜 ♪ これからの成長が楽しみです。


ローマ人への手紙 1章 20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


私は本当に、自然というのは神様からの私たちへの祝福だと実感しています。
もちろん、自然というのは、癒しもするし、襲いもする。

でも…、木々を見上げれば、イエスのいのちが私のうちで新しいいのちの木を育ててくださっていることを思って、嬉しくなります。
小鳥たちの無邪気な交わりを見ていると、父なる神様の庭での健やさ楽しさを見ているようで、これまた嬉しくなります。
なんだか心の頑さが、敗北していくのを感じるのです。

神の被造物である自然をもっと楽しみ、味わいたい。そこには、父なる神様を見る事ができますから。

そして、私はなんだか、主イエスの語りかける声に耳を澄ませるよう、私たちを助けてくれてるように思うのです。