2014年6月30日月曜日

去年のメモ 発見。

去年の5月のメモを発見した。
心中が、そのまま吐露されていると思う。面白いので、記録しておこう。

こういう事に、悩み、誰とも事実をありのままに見ての意見交換ができずに苦しんでいたわけです。

誰かが、自分の考えと自分の意思を持つための参考になれば良いと思います。

・・・・・・

あそこは、家族じゃない。会社だ。牧師が小規模事業主で、信徒は社員か。

教会株式会社の次期社長は、社長牧師の親族から社長牧師が選び、神学校へ学びに行く。どんな信仰の人であっても、親族から選ぶ。
役員は信徒リーダーたちで、これまた牧師が選び、通信で学んでいる。どんな人物であっても、牧師の裁量でリーダーになる。神からの任命だと言われて。
株主は…、世の制度とは違う。株主は、なぜか社員でもある。
牧師のビジョンを達成するための要員だ。

「平信徒」はいないと言いながら、実際には、平信徒はいる。
何も知らされず、何の意見をいう場も無く、勝手に決められてゆく事柄に盲目的に喜んで、感謝して、賛成し続けることが、良き信徒と言われ、異を唱えるなら、「自分の考え」をもつ「自己中心」と言われる。

牧師に、聞こうものなら、「権威に服従しない傷がある。癒されていない。根本的な重大な問題が解決されてない」となり、それでもつっこむと、感情的になり、きれる。
「だったら、来なきゃいいよ!」
「私のその問題と言うのが仮にあるとしたら、先生にはそれが分かっているのですか?」
「時間をとってあげるから、頼めよ。解決してやるから。」
凍りつく。こんな人に、心を開いて話をするのは危険だ。あえてするならそれは、私こそ愚か者だろう。

いったいなんなのだ。キレなければ、反論に対応できないのか。

私たちは、家族ではないのか?
そして、頭は、キリストのはずではないのだろうか?

キリストの身体である私たち平信徒(←あえて言う)に認識されて無く、信認もない人が、後継者として神学校にいくなんて、起こりえないと思っていた。
次の牧師が立つとしたら、サムエルのように、イエスから任命されたことをみんなが認識するようになることで、明らかなるものとばかり思っていた。
いきなり礼拝で、「行くことになりました。」拍手~???私は何に、拍手をしているのか?
彼が次の牧師候補となっていることは明らかでしょう。どんな言い訳を作り出しても。
なのに、そんな、なし崩しで発表し、なし崩しで私たちは受け入れるのか?

あのエンパワード21も、怪しい祭典だ。当事者はそうは思ってないようだけど、品性のなさがチラシから、その文章から醸し出している。誰も何も思わないのか?
こんな大きな聖会にする必要がどこにある。
立派な説教者を外国からたくさん集める必要とはなに?
この大イベントに、費用はいくらかかっているのか?
本当に「日本で一致したい」というなら、”日本の”クリスチャンでやればいい。
派手な大会にしなくても、信徒同士の交わりが持てる場を定期的にもち、教会間の垣根を取り除いていけば良いではないか。
外国のイベントと講師を依り代にした一致など、詭弁だよ。
何の聖霊の現れのない、やる気もよく分からない、救いの実績での証もほとんどないクワイヤーなのに、ビックイベントの奉仕の要請をなぜ喜べる…?地域ではほとんど無視されているのに、ドレスと、奉仕の箱、周辺教会の評価だけは、派手になって行くこの矛盾に、本当に誰も何も思わないのか?
これが、この要請が、神様からの祝福の証?成果がないのは、今が種まきの時期だから?真実だろうか?ただ単に、担がれているだけだろうと思うのは私だけなのだろうか。

ひとつの結論に戸惑う。

ここは、キリストの身体であるエクレシアではないのではないか。キリスト教という宗教ともちがう。
ここは、牧師教という小規模宗教団体ではないか?
だから、後継者は、親族で話し合い、親族から選ぶのでは?
だから、牧師のメッセージや教義、解釈に疑問を持つ事がタブーになるのではないか?

ここに一員でいる意味を見出すことが困難になっている。
何より、家族や友人、知人をここに、連れてきたくない。
私自身が、違和感を感じるのに、そして、嫌な思いを沢山したのに、同じ思いをさせたくない。

人よりも、みことばに従おうと決めた。恐ろしさまで感じたが、それも丸ごと、イエスに委ねて断ち切った。
あの時から意識が自立して、教会にある不条理で無礼な対応に向き合い、対応するようになった。
すると、関係が取れなくなってきたのだ。私は、問題児のようになっているではないか。
事実を知るために対話がしたいだけなのに、そのコミュニケーションがとれない。
心理的奴隷状態なら関係が持てるのに、自由人となると持てなくなるのは、いったいどういうわけだろう。

聖書の言うように、兄弟姉妹なら、いろんな意見があり、協議があり、そうやってキリストによる一致へと近づいて行くことができると思う。
しかし、階級制があれば、それはできない。異なる意見は、直ちにドップダウンを妨げるものとして、邪魔者扱いとなる。

真実は、いったいどういう状態なのだろう。神の目から見るような、実情が知りたい。
いったい、どうなっているのか。誰か話しのできる人はいないのか。

私は、イエス様によって集められた本当の群れ、エクレシアを求めているだけです。
ここが本当にあなたの群れですか。
イエス様、私はどうすれば良いのですか。どうぞ、私を諭し、教え、導いてください。



2013/5/27

2014年6月29日日曜日

私たちの特権 〜人生のメイキング〜

早いもので、2014年も半分が過ぎました。
今日は、前期(1~6月)の振返りと、後半の確認。そして、7月の計画を立てていました。
この前期は、なかなか楽しい半年間で、満足満足。

でも、思いました。
昨年までは、どうにも自分の頭と意思を用いて、自分自身の人生の日々をメイキングすることが、本当に困難だったです。
常にフラストレーションが募る1年1年を繰り返していたな~と、つくづく思います。

また教会の話ですが、「私たちは、キリストによって自由!」と言いながら、でも「あなたの計画は成らない。神の御心だけがなるのです。」という矛盾したメッセージをよく聞きました。
でも、講壇から語られる、この矛盾した”神”のメッセージが、かなり強力なダブルバインド(二重拘束)になってしまうんです。自由な発想は制限されるし、自分のやりたいって欲求には罪責感がチラついて、人生設計をするのが、とてもやりづらかったです。

教会に通う人で、こういう束縛感を持っている人が多くいる見受けられましたが、自覚している人がいるのかどうか、よく分かりませんでした。
また、その拘束の中でやりくりしている方は、その自覚がないですから、こういった話をすると、「癒しが必要なのね」と心配されてしまいます(^^;)

でも、教会の外で会う人々と話しをすると、意外に同じように自覚してる人って多かったです。どこでも似たような問題があるのだなあ〜と、おかしかったです。

で、そんなメッセージで引用される聖句といえば、これですかね。

 箴言 19章 21節
 人の心には多くの計画がある。 しかし主のはかりごとだけが成る。

このみことばだけを取り上げてしまうと、拘束メッセージになりやすいので要注意〜!

まず、神様と私たちとの温かい信頼の関係を知っていることが本当に大切ですね。
他者の介入の余地のないほどの、主と自分との温かい信頼関係を理解していれば、影響力のある話者の「コントロールしたい」という隠れた意図を見抜けるし、静かに避ける事が可能です。


神様の懐の内に生きながら、人生をメイキングするのは、私たち一人一人の特権ですし、役割です。

私たちは多くの計画をもちます。
そして、その計画と神のことばと照らし合わせてアレコレと考えることは、とても楽しいことです。
どの計画が、神様からのもので、どれが益とならない物なのかを発見して行くのは、主との楽しい共同作業。その交わりによって、私たちはもっともっと主と親しくなっていけるのですから嬉しいものです。

そうやって、みことば(主イエス)によって磨かれて、私たちは神様の意図と栄光をピカピカの鏡のように映し出して行く者へと変えられていく…。この歩みをもっともっと楽しみたいです。



2014年6月22日日曜日

いつのまにか、ブログ1周年

気がつくと、ブログが一周年を経過していました。ははは!
去年の5月に、おっかなびっくりですが、ブログを開設したのが初めでした。

月に数回の更新だけで、ご覧の通り大した記事ではないですが、少しでものぞいて頂けると、やはり嬉しいものですね。
読んでくださった皆様、ありがとうございます。

当時は、とあるキリスト教会に所属していて、いろんな疑問や不条理と思える事柄について、悩みは行くところまで行って、行き止まりに至っているといった状態のときでした。

でも、当の教会の中で話で、この手の話を客観的に自立して対話できる相手が見つからず、自分の考えを検証することができなかったので、非常に苦しく、前にも後にも身動きがとれないとはこの事じゃないかいなと、よく思ったものです。

こういう状態のときって、他のどの分野もすべて停滞するみたい。
聖書をこよなく愛する私にとっては、おなじ神の家族であるはずのコミュニティは非常〜〜〜にっ重要な場所なので、これが健全化しないと、人生の全分野にまで影響しちゃうんですよね(汗)

なので教会について、所属しつづけるのか否かを決する事が、昨年(2013年)の最優先課題だったのです。昨年11月、ついに所属を辞すると言う事で、結論を出す事となりました。年間目標の達成ですかね。ははは!

今は、みことば大好きの兄弟姉妹と、2週に1度くらいのペースで集まっては神様談義に盛上がってます。この素朴~~~な交わりの中に、私たちの救い主がいることが、人々に知られるようになったら嬉しいよねと、話しています。

この1年でのブログの記事を改めて読むと、何か一生懸命と言うか、生真面目と言うか、必死というか、余裕の無さが感じられるものが多いですね。書きかけのとかもあるし。なんというか、以前の束縛された状態からの脱却に必死になってるような感さえしますな(苦笑)

それも経過観察として面白いと思いました。私たちは、色んな経験をして、神様に成長させていただきますからね。キリストの身丈に至るまで。その経過を楽しみたいと思います。

最近は、職場や家のことで忙しくて、ブログを忘れぎみ。ちょっと(いや、かなり?)間が空きましたが、またちょろちょろ~と書いていきます。良かったら、たまにのぞきに来てくださりませませ。
気軽にコメントいただけると嬉しいです。

また1年、よろぴくおねがいします(^^)

2014年4月18日金曜日

お気に入り… 岡田くん

すみません。どうぞ、スルーしてください~(´ ▽`)/


最近、急上昇でお気に入りなのがコチラ。V6の岡田くん。
努力家で読書家で、よくモノを考えている。家族思い。後輩思い。礼儀正しい。まじめ。ストイック、思慮深い。常識人 etc。そして、かなりのイケメン


SP」の頃から、お気に入りだったけど、最近とくにお気に入り♡


かんぺきや


岡田くんが、会社にいたとする

かなり、真剣に仕事をすると思う。
雑念の一切を全て振り切ってる。クオリティ上がる。

机の上は綺麗にする。
今も綺麗だけど、もっと綺麗にする!毎日、ウェットテッシュでふく!
紙コップで作ったペン立てはやめる。カスタムメイドで使いやすいけど。

他の女子と話していても、自制する。動揺を顔にださない!余裕を保つ!

職場は制服だけど、行き帰りの私服は絶対に手抜きをしない。

お昼の公園の30分間の散歩は欠かさない。チャンスを待つ!

メイクもナチュラルだけど、一日崩れない、くすまないメイクを研究する。

美容院は、月に一度はいく。

基礎化粧品をワンランク上げる。

ユニクロは卒業。下着もワコールにする。深い意味はない。見えない所から!

ナチュラルな香水を探す。自然な風に香るようにまとう。

部屋に花やグリーンを増やす。部屋のカーテンを水色にする。何となく。

洋服のジャンルが変わる。甘すぎず、辛すぎず、流行にとらわれないスタンダードなもの。
しなやかな、女性らしい服装。

22時には寝る。早起きをする。朝のランニングを継続する。

ストレッッチで身体をしなやかに、柔らかくする。

読む本のジャンルが変わる。(現在「秘録 陸軍中野学校」←こらこら)

25年ぶりに剣道の型を習いを始める。(岡田くんは居合。私は型)

・・・・・

なるほろねぇ。アコガレの存在が近くにいると、人って変わりますのね。
なんか、研ぎすまされて、根本から変わろうとするってのが分かりましたワ。
神様の意図したBestな状態への余地が、まだまだ満載にあるようです。

そっか~。
もっともっとイケるな。私~~~*


追記:
過越を思いめぐらしてたです…。ふ〜む。どうやら発想が逆のようですね。

↑コレ、全部、本来自分がしてたいことだもの。
こうなってるほうが、自分はもっと楽で、楽しい*
そうしてないことに、かすかなストレスを持ち続けてるってことありますよね。

むしろ、本来したい楽で心地良い生き方を妨げてる、けだるい思考や、必要の無いムダなことをして消耗してる事柄を ”止める” ことで、自然とこう↑するようになることばかり。
実際、その無駄な思考や行動に心当たりがいくつもあります…。

まだまだ、不純物があるものですね。純金のなかのかなかす取り除こ〜♫
もっと自由に、もっと心地良く、神様の大庭で生きられる*





2014年4月15日火曜日

過越の夜に思う…

出エジプト記 12章 13節
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

14日の18時から、過越の祭が始まりましたね。
とても美しい満月でした。神様の契約の印でもある、くっきり綺麗な円が輝いてました。

聖書を愛する友人たちも、おのおのが出来る範囲で、過越の祭を始めてます。
マッツア(種無しパン)を自分たちで焼いて作ってみたり、ワインや市販されているマッツァをゲットしたり、家族全員でイエス様が弟子たちと行ったような食卓をもったり…。
それぞれが、この約束された時に、神様の中へと入っていっています。

経験することって、本当に大切ですね。
経験することで、理解できることが本当に沢山あるのだと驚かされます。

神様が備えた例祭を初めてまともに意識してます。例祭のなかには、私たちが知らなかった神様の意図がたっぷりと詰め込まれてる。神様、私たちの主は、なんて素晴らしいんだろ。
私は、もっともっと主の意図を知りたい!


さて、私の過越の1日目は、いつもの如く、一人で静かに聖書の出エジプトを読んでました。
マッツァはクラッカーで代用〜。そして、あのパワフルな、世界にとどろく大国エジプトから引き出された大脱出と、この神様が定めた過越の祭に思いを巡らせていました。

私は、この世のエジプトから脱出しているってことが、本当の現実、真実であることに、大きなインパクトを受けています。昨年まで、頭では分かっているようでも、実際には四苦八苦していました。まだ奴隷の状態でいるってことに、本当に苦悩していました。

でも、今年になってから、ますます神様との関係が深まってきて、驚いています。
とにかく、聖書を知る事。みことばを知る事、理解することです。ホントにそうですよ。
ただただ、聖書のみことば(イエス)が、私をあるべき姿に整えてくれる。なんて心地いいことでしょうか。これをどう表現していいのか分かりません。

そうそう以前、教会で映画「十戒」を見ました。
災いが通り過ぎるために、家の門柱と鴨居に子羊の血をつけます。
災いは、門に血のしるしのある家を通り過ぎていきます。過ぎ越すワケです。

そのとき、その子羊の血こそが、私たちのメシア(救い主)イエスの血である事が分かって、本当に驚いたことがありました。驚きと共に嬉しさと喜びで、一人で興奮していましたっけ。

この子羊の血は、私たちのためです。血を流してくださった、子羊イエスのおかげで、私は生まれ変わっています。自分を悩ましていた、あらゆる性質がもう無いなんて、信じられますか?
でも現実に、すべて過ぎ去っていて、あんな(遠い目…)生き方をしようにも、もうできないのですよ。「おぇ〜」ってなるから(笑)ホントに。ははは!

私は聖書を覗き込みます。
私はどこから来たのか、私は何者なのか、私は今どこに生きているのか。
それが分かるたびに、なんだか目の奥が熱くなってしまう。

神ご自身が寝ずの番をしてくださった一晩。

聖書のみことばを眺めながら、ただ静かに、この心地良さに浸っていたい。

そんな過越の祭の始めの夜でした。



2014年3月31日月曜日

聞くに深く、語るに遅く…

一つの事柄でも、10人の人がいれば、10通りの見方や受け取り方があるみたい。

ある事を、
 楽しいことと取る人
 責任を感じる人
 人にも教えたいと思う人
 誰にも言っちゃいけないと思う人
 問題と感じる人
 嘘だと思う人
 知ってしまったことにプレッシャーに感じる人
 忘れちゃう人
 前代未聞と受け取る人
 よくある話と思う人 などなど~。

だから、できるだけ、色んな人の意見や、印象や見方を聞きたいと思う。

自分の見てることや感じてること、思ったことは、自分目線の一方向からの認識にすぎないと分かって来たのは、30代を過ぎてからかな。

20代の頃は、自分の見方がおおよそ正しいと思っていた。
「あれって、こういうことだよね。」「あの人、こう思ってるよね。絶対!」
女子には、こういった会話が多いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

でもその見立ては、意外に外れていることが多い…。
けど、自分は当たっていると思い続けているってことないでしょうか。

なぜって?
ふふふ。答えは簡単。「確認」しないからですよね。

実際、本人に確認もしないのに、調べもしないのに ”事実” を知っている気になっている。

これがね、「外れてた!」と知るときの、あの無様さったら、たまりません。
私は二度と、あの無様さを経験したくないです(ブルブル)

だから、仮説はたてますが、できるだけ事実の確認ができるよう、情報を集めるようにしています。
そして、複数の意見を聞きたいと願っています。

特に、自分と違う意見を聞くのは面白いです。
でも、どうやら私たち日本人の多くは、「違う意見」を受け入れるのが難しいみたい。

なんか、個人の「人格」を否定されたように感じてしまうのかな?
自分も、そんな心が萎縮するような感じがするときがあるので、分からなくないです。

日本では、「議論をする」という訓練がされていないせいではないかと思います。
「それは、なぜですか?」という一言で、恐れて萎縮してしまう人もいる。
話の聞き方、引出し方を工夫してあげる必要があるみたいです。

あと、自分と同じ意見でないと、すぐに「反対」意見。
大げさに言うと「敵」ってことになっちゃう傾向があるようにも思います。
これでは、人々の多様性から良いものを引き出すことはできません。

意見交換や議論の目的が何であるのか、分からなくなります。
人がコミュニティでいることの利点は、多数の目線から、いま出来る限りの「正解」に、「真理」に共に迫って行けることではないでしょうか。

多数の目線から、出来る限りの「客観的な事実」を得て、「真理」に迫る。
これが、健全な議論の目的なのだと私は思います。

各々の意見なんて、ただの情報にすぎないと思うのですがどうでしょう?
各々の持っている ” 意見、提案、事実認識 などなど = 情報 ” を交換しあって、お互いに視野を広げることが、健全な意見交換、議論の場だと思います。

家庭でも、友人とでも、会社でも、いろんなコミュニティでも。
それが、聖書のみことばの溢れる知恵によるものであったら、本当に最高です。

異なる意見、大歓迎!
聞かせてほしい。どうして、そう考えるのか。
あなたの見てることを私も見てみたい。

それは、「相手のことを理解する」ことでもあります。
たしかに、これはとても難しいことですワ。
でもこれこそ、人間関係を育むために、一番大切なことのように思うのです。

聞くに深く、語るに遅く…。
今、心がけている楽しみの一つです。


えっ?できてるかって(汗)?
いや〜、日々、再トライの繰り返しですぅ〜〜!!!



2014年3月21日金曜日

静かなのが好き

今日は、お家に一人でお留守番の日です。
いつもはにぎやかな我が家ですが、たまに一人で過ごす日も、それはそれで楽しい。

なぜって…、テレビを付けなくていいから。と〜っても静かなんだも〜〜ん。

うちの家族は、昔っからテレビっ子。
両親も、私たちが大人になってからは、何故かテレビっ子になってしまった。

そういえば、「テレビばっかり見てんじゃないの!」ってしつけられましたけどね。
期間限定だったのかしら???


はあ〜〜〜♫ とっても静か…(うっとり)

私は、一人でいる時は、ほとんどテレビを付けません。
車に乗っているときも、基本的にラジオや音楽は付けない方です。
無音で運転…。

あ、先日、友人を乗せて運転したときも、そういえば無音だったっけ…。
まあ、ずっとおしゃべりしてたから 良しとしよう〜:)

静寂に浸る…。無音のなかで、その静けさを聞いているような感じでしょうか。
静寂の中にいた方が、元気になれます。

早朝に目が覚めたとき、静寂に安息したくて、そのままお布団に座って目を閉じます。
耳を澄まして、思いのほか朝から元気な鳥たちの声や、かすかに感じる風の音を聞いていたりします。
多くの人々に知られることのない早朝。
そんな世界にも、確かにある豊かな営みに、自分も参加しているような気分になる。

逆に、そういった静かな時をもつことなく数日を過ごすことがあると、なんだか思考の中がざわざわするようで、モノがクリアに考えられなくなることに気付きます。

そんなときは、早めのお風呂にゆっくりつかり、そのままお部屋に引っ込んで、一息…。
温かいモノでも飲みながら、聖書を読んだり、御言葉やその情景を思いめぐらしていたりましす。

私の至福のひとときです。

詩篇 77篇 12節  
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。