2013年6月17日月曜日

わたしの「からし種」③

「その箇所なら知っている!ヨハネの福音書1章だっ!」
急いで、聖書をめくりました。

ありました!ありました!ヨハネの福音書1章14節です。

ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そうです。 このみことばです!すごい…。イエス様、教えてくださったんだ。
1章の始めから確認しました。


ヨハネの福音書1章 
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 
2この方は、初めに神とともにおられた。
3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4この方いのちがあった。このいのちは人のであった。 
5はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7この人はあかしのために来た。についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
8彼はではなかった。ただについてあかしするために来たのである。 
9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。  
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ああ、なんてことでしょうか。私は、真理を垣間見たのです。
この世界は、イエスによって作られたのです。イエスはこの全世界の主です。

この1章は、何度も読んだ事がありました。1年に1度、聖書を通読するので、少なくとも4年間の間、聖書の箇所として十分認識していたのです。
けれど、この時みことばは生きたものとなりました。

ことば!ことば!イエス様は、神様のことばが人となられた方だったのです。
ことばはその人格の出現です。ことばはそれを発した方そのものです。
イエスは、神そのものだったのです。

ああ、うまく伝わるでしょうか。
私たち人間の知性では理解できない事です。私は理解していませんでした。
しかし、その時、私ははっきりと知ったのです。それは、知識ではなく、私個人の ” 経験 ” となりました。

聖書の始めから「ことば」という箇所を確認しました。
そして私は、聖書のみことばが、その全てがイエスなのだと理解するようになりました。
聖書のことばは、なにひとつ侮れない。その全てに偶然はない。すべてに何かの意図がある。
この時から、これが、みことばに対する揺るぐ事のない、私の根本姿勢になりました。


そして、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」このみことばこそ、主イエスが私のうちに蒔いた信仰の種、「からし種」です。
1mmほどの、本当に小さい。けれど全く混じりけのない純粋な信仰の種なのです。


いま、聖書を読むとき、私は活字を読んでいるのではありません。
一人、静かに心静まり、聖書を食して(読んで)いるとき、その文字から、イエスの息吹を感じるかのようです。私は自分の呼吸とともに、イエスの息吹を吸い込んでいます。






2 件のコメント:

  1. ‘わたしの「からし種」①~③シリーズ’を一気に読ませていただきました。文才、神に与えられてますね。(^^ゞ
    イエスは父なる神が語る時それを語り、神が成す時それを成していたのですね。父なる神と一体だったのですね。
    私もイエス(頭)と共にその器官として一体であり、その上で神と一体であることを常にきちんと認識していたいです。

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    1. コメントありがとうございます!どうもこの記事を先に書ききらないと…!というので思いがいっぱいになってたので、一気に書き上げました。私の原点を明確にできた事はとても貴重な経験となりました。もやもやが晴れて、くっきり明瞭になりました。
      文才?うほほっ、感謝します(受け取りマス)
      中学校のとき、初めてほめられた作文は「カップラーメンとインスタントラーメンの相違について」(←なんじゃそりゃ)でした。どんな能力も才能も自分のために使うなら無意味ですね。どうぞ主イエスのみこころのために使って頂けますように!

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