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2014年2月8日土曜日

振り返って…① 守りたいのは、キリストによるいのち


ヨハネの福音書 10章 10節
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

昨年のことをつらつらと思い返しています。
昨年、年の初めに「これだけはケリをつけたい。」と、切に切に願っていたことは、何年も悩み続けた「教会」に所属することの進退についてでした。

”この教会に、このまま通い続けることは、正しいことなのだろうか?”

説教の内容、日曜の礼拝、牧師とリーダーと信徒のあり方、行事、奉仕、学び(バイブルスタディや、セルリーダー研修)、献金、伝道、セルグループのあり方、交わり などなど。

もう、これだけははっきりさせないと、”人生が窒息させられる” と、本気で考えていました。
でも、”○○教会” に対して、また教会を取り仕切る ”牧師” に対しての批判(非難ではなく)は、神様に対して罪を犯しているのではないかと恐れ、板挟みになって苦しんでいました。

しかし今、私はもう「自分の受け取り方が間違っていたからで、批判的に捉えていた私が悪いのです。」とは言いません。
そうやって、何年も ”自分が悪い” と言い聞かせながらも、しかし常にある不条理に、大変な束縛をされて来てしまいました。

早く気付くべきだったことがあります。ざっくり言うと、この3点です。

・「現実」を客観的に見ること。
・聖書を正しく学び、神が意図した本来の意味を理解すること。
・人には、それぞれの責任の範疇というものがあるということ。

何が健全で、何が不健全であるかを常識をもって見分けることは非常に大切です。
主は「実によって」見分けるよう言われています。(マタイ7:16、12:33、ルカ6:44)
それには、実情を客観的に認識することが必要です。
そして、神の意図した御言葉の正しい理解がなければ、判別することなど出来ません。

そして、こうなります。”クリスチャン” にありがちな傾向の一つ、
「私が全て悪いんです。悔い改めます。」
「私も罪人です。あの人(あの事)を(無条件で)赦します。」

そのように、超自虐的になるか、反動で全て相手が悪いと裁くか。
どちらにしても、束縛による苦しみの道です。
それで当人は御言葉によって取り扱われることはありません。

表面的にはニコニコ朗らかで、仲良しに見えるのです。
でも実質は、違和感や嫌悪感、えも言われぬ不快感や理不尽への憤りによって自覚なく静かに、そして時には激しく魂を蝕まれ、キリストのいのちは窒息し続けることになっています。

個人個人の責任、役割の責任の線引きが曖昧になってしまい、主の前に本人が取るべき責任を取らせずに、他の人がその責任をかぶっている結果です。

この切り分けを聖書にから正しく学び取るならば、毅然として対応できた事なのですが、それがなかなかできませんでした。

なぜでしょう?
一つは、聖書を実際には分かっていないということ。
もう一つは、程度の差こそあれ、ある種のマインドコントロール下の置かれている状態になっているからです。


”○○教会”を出たということは、実質的に、私には”○○教会”に対して痛烈な「批判」があるからです。
そこに居続けることに、多大な害悪があると判断したからです。

愛する兄弟姉妹との交わりを犠牲にしてでも、キリストによるいのちを守る方を選びました。
人に従うよりも、神の御言葉に従うことの方が重要だと考えました。

実際、そうでなければ、人々との健全な関係を育む事などできません。
表面だけの良き関係など、主の目から見てなんの価値があるでしょうか?
違和感を持ちながら、それを分かち合う事のできない関係をどれだけ重ねて、何が育まれるでしょう?

聖書を愛する方々、主を真に求める人々と、神によって与えられたいのちを喜び合いたい。
それを豊かに保つよう、みなで一つ心となって生きたいというのが、私の切なる願いでした。

教会のヴィジョンなど、キリストによるいのちを損なうくらいなら、捨てた方がましです。
イエスがいのちをかけて成し遂げてくださったのは、私たちがいのちを得、それを豊かに持つためだからです。


つづく




2013年12月25日水曜日

「聖書の基準」と「教会の基準」

先日は、以前所属していた教会が開催する、毎年恒例のクリスマスコンサートに行ってきました。

ほぼ毎週礼拝前や、礼拝後に兄弟姉妹との交わりもそこそこに練習に励んでいるクワイヤーの労が報われることは、私も嬉しく思います(^^)

兄弟姉妹と久々に会って元気な顔が見ることができて、とても嬉しかったです。
「あー、ポピー(ブログ主)元気だった〜(^^)♫?」と声をかけてくださる方もいて、本当に元気で温かい♡主にある家族を喜びました。

しかし…。
ココからは、”教会”の典型にむかついた本音トークっす…(怒)
人によっては、読まないほうがいいかもですゾ(-”-)

ここまでダイレクトに素直に言うヤツがいるとは思わなかったあのセリフ…。
それは、「”○○教会”を出た人」に対しての典型的な評価が、思わず素直に出てしまった兄弟の一言です。
兄「やあやあ、元気だった?」 
ポ「久しぶり!元気してますよ (^^)!」 
「へぇ〜ほんと〜?落ちぶれてるんじゃないのぉ〜?(悪気なし)」

でたぁ…!クラクラ〜ッ(*3*)コレなのです。コレ!
シクシクシク(T_T) 情けないっ…。もうね。いい加減、こういうの止めましょう?


うちの教会に集っていれば、祝福される。うちの教会は正しい教会。
うちの(牧師)先生は、他の先生たちよりも良い。正しい。祝福されてる油注がれた器…etc

そして、反対に、別の教会に行く人には「問題」があって、出て行く人、来なくなる人は、人生が悪い方へ行く(呪われる)。

それで頭を打って悔い改め、放蕩息子みたいに落ちぶれて、泣きながら「ごめんなさい。悔い改めます。」って”牧師”にすがりついて戻ってくる…という ”思想” です。

兄弟よ。分かってますよ。あんさんは、もちろん悪気もないし、それが親しい愛情表現の一つだという事も…。

そして、”○○教会” に休まず集っていると、そういう思想がいつの間にか頭のなかに生じてしまうのですよね。実際、私もそのように思っていました。

いなくなる人がいれば、皆この思想をベースとして話していました。
自分たちの  ” 教会 ” の方にこそ、彼らを居づらくした問題があるのでは?とは、かけらも思わなかったのです。

自分が ”○○教会” 出る事を悩むようになって、初めて居なくなった人々の胸の内、その一人一人が事情と悩みを持っていたという現実を、私自身まるで見ていなかったことに気付くことになりました。

たまに、牧師がその人の事を解説するのを聞いていたので、自分も来なくなったらこんな風に、牧師目線の診たてを人々に話されるんだろうか…?と思ったものです。
「”問題”をそのままにしているので、いずれ頭を打って戻ってくる。その時は、前よりひどい状態になっている」
ああ、そんなこと聞いたら、恐怖の動機づけされちゃうの当然でしょう。


さて、しかしこの ” 思想 ” の本質って何でしょう?それは、聖書に照らしたときに、恐ろしいものです。
これは、典型的な ”○○教会信仰” です。「○○教会 ”教” 」もしくは、そこの指導者対象の「○○牧師 ”教” 」ではありませんか。

大げさですか?
単純に、「教会のことを大好きな、牧師思いの微笑ましい信徒なだけじゃないのかな?」と思われますか?

いいえ、これは本質的には分裂です。(Ⅰコリント1:10〜13)
「○○先生につく」「△△先生は油注がれた器」「□□教会は主に祝されている」
他教会の兄弟姉妹との交流に良い顔をしないのが、ひとつの証だと思いますがいかがでしょう。

しかも、それには「祝福」「呪い」が伴うと思っているならば、これは紛れもなく「偶像礼拝」ではないでしょうか。

なぜなら、祝福と呪いは、Torah(トラー:モーセ五書)に明らかにされている「神のことば」「神ご自身と交わしている契約」に、一人一人が聞き従うかどうかの結果です。
その契約、すなわちシナイ山での「婚姻契約」は、今現在も変わらず有効である事を知る必要があります。

そして、私たち異邦人は「神のことば」そのものであるイエスを信じる「信仰」によって、その契約の祝福は今ここに、すでに与えられているのです。

私たちは、すでに神の教えであるTorahを「生きる」ように、修復されています。
イエスによってです!
その事実を私たちは、日常の日々の中に発見する事こそ、最優先に大切なことではないでしょうか。

”○○教会” に集うから?奉仕を熱心にしているから?十分の一献金をちゃんとしているから? 教会行事にことごとく参加しているから? ”牧師”に忠実だから? 祝福されるのですか。
愚かしい事です。そんな基準はありません。

むしろ、これら教会ごとには熱心でも、「神のことば」に熱心でなかったら、「神のことば」であるイエスと、何の関係がありますか。

今回の牧師のメッセージのように。(←いやみ)

集う群れは、どこでも良いのです。「母教会」という概念は日本特有で、聖書にはないものです。

イエスを信じる者は、神のことばにその基準を置きたいものです。


詩篇 46:10 
「やめよ。 わたしこそ神であることを知れ。 わたしは国々の間であがめられ、 地の上であがめられる。」



恐れるべきお方を恐れましょう。そこには、求めている安息と自由があります。

聖書を愛し、御言葉を愛し、イエスを愛する兄弟姉妹と共に集える日がくることを願っています。


2013年12月22日日曜日

「楽しいクリスマス♫」そのルーツを知る



明日は楽しいクリスマス〜♫
この時期は日本だけでなく世界の多くの国々はクリスマスの雰囲気で包まれますね。
街も、家庭も、テレビやラジオも雑誌もクリスマスの話題で持ち切りです。

私も、小さい頃からクリスマスを楽しみにしてました。
手作りの家族パーティと、「真っ赤なおっはっな〜の〜♫」と歌いながらの家族全員でのプレゼント交換(^^)☆夜、お布団に入ってからは、一生懸命、目を開いてサンタクロースを見ようと頑張ってました。朝起きたとき、目に飛び込んでくる大きなクリスマスプレゼント!外は、輝くホワイトクリスマス…!!ああ、なんて楽しい思い出でしょう!


でも、聖書を神のことばと信じるようになってからは、気付く限り、様々なイベントのルーツを確認するのが習慣になってしまいました…(^^;)

そこで、クリスマスを楽しみにしている方々には、水を差すお話ですが…。

クリスマスのルーツをご紹介下さっている友人のSojournerさんの記事をご紹介します。


特に記事中のリンクを是非ご確認ください。

記事中、陰謀論でおなじみのイルミナティとかは、個人の好みにお任せしますが、興味ない方はスルーしてくだされ。

クリスマスにお馴染みの、「サンタクロース」や「もみの木」、「聖母子像」などのルーツについて解説している記事は、非常に分かりやすいかと思います。



「‘神の戒めを捨てて・・’」http://ameblo.jp/pupil0814/



私のなじんできたサンタクロースは、素敵な優しいおじいさんで、大好きでしたし、今でも見ると和みます。
しかし、現在の私は「サンタクロースよ!おまえもか!!!」ですっ(T◇T)

ルーツを知り、それが全て虚像だったと知り、かつそれが偶像礼拝となっていると知ってしまったら、それを無邪気に続けるのは困難なことです。

教会などでは、世が肯定しているクリスマスを良き機会として、主イエスを伝えるイベントを開催するところが沢山ありますね。

でも、教会は神のことばを委ねられた群れです。
自由と喜びにあふれながらも、大きな責任が委ねられているのも事実です。

ぜひ、ルーツを確認した上で、どう対応するよう、御言葉が告げているか、イエスを愛する一人一人が、自分で聖書を開いて、主ご自身にご確認頂けたらと思います。

明日は、以前所属していた教会のクリスマスコンサートに行く予定です。
ただただ、兄弟姉妹の元気な顔が見られる機会として心から楽しみにしています(^^)

しかし、私は聖書にご自身を余すところなく現しておられる主イエスご自身を岩とし、土台として御言葉の内に生きる事を選びます。

メシアの与えて下さっている、溢れるいのちを守りたいからです。



ヨシュア記 24:15 
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」


2013年11月11日月曜日

9年目の分岐 支流へと

みなさん、こんにちは(^^)
11月に入り、大分寒くなってきました。
どの季節も良さがありますが、ポピーは冬も大〜好きです。
寒いんですが、その分、お部屋を暖房で暖めてヌクヌクするのがたまりません♫
今は、どれだけでも温かく過ごす事ができますから、冬はあったかさの幸せ〜♡を感じる事のできる季節です。

さてさて、少々ご無沙汰してしまいましたが、この2週間ほどで、色んな事が激変してました(^0^;) 記録もかねて、ありのまま書いときます。

以前、教会から離れる事をひとり決意したことをお話しました。(「3年間で出した結論」)その時は、この葛藤を上手く説明できず、話の噛み合なさに対応できない事に非常に苦慮していました。
でも、その時から気になったいた聖書の言葉は…。


箴言 8:12
知恵であるわたしは分別を住みかとする。 そこには知識と思慮とがある。

う〜ん(汗)「知恵」とは「神の言葉」。すなわち「私たちの主イエス」ご自身のことです。イエスは分別を住かとしておられるとは…。8年も親しく集っていながら、黙っていなくなるって…。分別のある対応かしらん??購読してる雑誌だってあるのに、困らせてしまうやろ…。

でも「とにかく離れよう…!」とひとり決意した後、不思議な事に急激に思考が整理され、明瞭になっていくのに驚きました。
これならば、冷静に話ができると思い、「やっぱ、ちゃんと話をせねばっ!」と、思い切って所属していた教会の牧師先生と話をする機会を頂きました。
目的は?顔と顔を合わせて、ありのままを話をし、「信頼関係を取り戻すため」!

(電話するときは、なぜが心臓バクバク、お腹はピ〜、呼吸は浅く、目眩くらくら〜なほど、緊張しました。いや本来、緊張する必要さえないんですけど、なんででしょうね?)

とにかく聖書は「人間関係の健全」さ、「人々との関係をできる限り平和に保つ事」を求めておられます。神様は、人々が互いに健全に関係し合うこと、大切にし合うことを重視しているように思います。

その週末にさっそく時間を取ってくださり、”教会”において、私自身が疑問に思っていることについて、6時間も時間をとってお話しすることができました。(先生、ありがとうございます(感謝))

そこでの内容はダイレクトにあかしすることはしませんが、牧師先生の考えをできる限り聞かせて頂く事ができたかと思います。また、私自身が求めている事も、分かち合えたのではないかと思います。(だとイイな…^_^;)

それをふまえて更に2回、日曜の礼拝に集いつつ整理した結果、8年間集っていた教会を離れ、さらに聖書について深く学ぶことのできる教会に集うことを決めました。


11月3日(日)の礼拝後、牧師先生のところに尋ねて行き2点を理由としてお伝えしました。

▼一つは、もっと聖書自体を深く学びたいってこと。
一人の牧師先生からの教えだけでは、先生の理解範囲と理解レベルで頭打ちになってしまうので、自分はさらに深く聖書自体を学んでいきたい。

▼もう一つは、牧師先生からのトップダウン、右に倣えでの一致を目指した組織体系の教会より、牧者から御言葉によって養われながらも、牧者も信徒も一緒に話し合いながら、問題を解決したり、聖書を学んだり、ミニストリーを立ち上げたり、判別をしたりする教会(群れ)に集いたいということ。

牧師は静かに「分かった。」と一言いってから、「祈ります。」といって、なんと出立の祝福を祈ってくれました(ビックリ)!
そして、教会の交わりにも「もともと何の制限も設けてない」ので来ても良いといわれ、兄弟姉妹との関わりも持ち続けることができるようになりました(ビックリ)!
いや〜我らが先生は、さすが男前です(←ちょっと違うか)

私は「教会を離れる」っていうと、「断絶っ!」って感じに、とても破壊的なもののように思って恐れていました。まるで、自分の指を自分で切り落とすような辛さですよね。
(あ〜、だから今までは動揺して話ができなかったんでしょうか?)

とにかく、お互いに顔を合わせてちゃんと話をすること、分かち合う事はなんて大切なことでしょうか。
それをしないと、疑心暗鬼が、私たちの関係を破壊して行ってしまうようです。それはあの古い蛇の思う壷。そうはさせたくないですよね!



その日、そのまま会えるだけの兄弟姉妹に会って、教会を変わる旨を話し、挨拶をさせてもらいました。今まで、そんな事を考えていたなんて話してなかったので、驚かせてしまいましたが、この本当に麗しい神の家族の兄弟姉妹は、こんなポピーを残念がってくれ、またこれからの事を励ましてくれました。ありがとう。
「挨拶して出て行く人はじめてだ〜!」と笑ってくれた姉妹がいました。ほんとそうですね。いつの間にかいなくなっちゃう方が多かったナ。そんなの寂しいですよネ。
祈ってくれた姉妹たちにも、感謝。本当にありがとう。

これからは、モリエル・ミニストリーズで出会った方々の教会になんとSkypeで集いながら(←今風デス〜)、聖書を更に深く学んでいきます。
また、名古屋でのモリエルの聖書セミナーの手伝いを奉仕として手伝っていきたいと思っています。

とはいっても、またちょこちょこ今までの教会にも顔を出すので、みんなと近況報告でもできたら嬉しいな〜!


2005年の1月に、初めて教会にいってから、9年目ですね(今まで8年と思ってたけど9年たってた)色んな事があったけど、どれもすべて必要な事だったと思います。牧師先生や兄弟姉妹の支え無しには、のりきって来れなかっただだろうと本気で思います。
感謝・感謝・感謝です。


さて、これからは、主ご自身につながりながら、色んな兄弟姉妹と交わりを持って行く事になります。
ど〜なるのかは、今の時点ではまだ良く見えませんが、ただこの日常を主のいのちで目一杯楽しみながら、御言葉を通して主ご自身にグイグイ迫って行きたいと思っています♫


教会の牧師先生はじめ、兄弟姉妹を感謝し、また祝福を祈りつつ…!!!





2013年10月9日水曜日

3年間で出した結論

皆さん、ご無沙汰しておりました。お元気ですか。

日本は秋まっさかりで、朝のジョギングは本当に気持ちのいい季節となりました。
早朝の空気は澄んでいて気持ちがよく、まだ人や車も少なくて、朝の静けさに浸る事ができます。

日の出が見られたときは、とても素晴らしいです。イエスの購いと復活の朝をいつも思います。
そして、神の救いの契約が今日も継続している事、今は恵みの時である事を思い起こさせてくれるのです。

でも、今朝はとても厚い雲が覆いかぶさっていました。
そんな日は、あれだけ強烈な輝きを放って昇ってくる太陽が、まったく見えません。
雲を照らし、空を明るくして、そこに太陽があることは分かるのですが、太陽自体はまったく見えません。雲の厚みで、まったく隠されてしまうのです。




朝焼けを覆い隠す雲


この一ヶ月ほど、更新がなかったのは、いろいろと整理したい事があったからでした。
そして、ようやっと今の時点での答えに至ったので、分かち合いたいと思います。

10月から、今まで8年間通った教会から、一時離れる事にしました。
それは決して教会の牧師や兄弟姉妹が嫌になったとか、嫌いになったとかいうワケではありません。むしろ逆です。私は、教会の牧師も兄弟姉妹も大好きで、会えなくなる事がたまらなく嫌なのです。


教会に通い始めたころは、牧師やリーダーとしてお世話してくれる兄弟姉妹たちから沢山のことを教えてもらいました。とくに、その信仰の姿勢、生き方を模範として養われてきたように思います。

でも、私たちは地上での生涯をおくる間、一生涯をかけて神を、イエスを、御言葉と福音の奥義を知るために、追求し続ける必要のある存在であると思います。

神を知る事は、一日二日で分かるようなものではないですね。
また、今は私たち一人一人が御霊を頂いていて、以前のように預言者が私たちに神の言葉を取り次ぐのではなく、私たち一人一人が主イエスとの関係を育み、聖書の御言葉によって養われ、神を知り、主イエスの弟子、またイエスにある大人として成長していく責任があります。


3年ほど前、その事に気付いてから、御霊に押し出されるように聖書自体を学ぶ事を始めました。でも、その頃から”教会”との関係がぎくしゃくし始めてしまったのです。
教えられていた事が、全てが全て、正しかった訳ではなかった事に、気付き始めたからです。ビービー泣いては、頼ってばかりいた私は、訳が分からず、今度は抵抗し始めました。

おそらく、全てが健全な環境というのがあるならば、「人の教え」と「神の教え」の判別を学び始めた訳ですから、それはむしろ良い事、喜ばしい事であったはずだと思います。

でも、御霊の事は御霊の言葉、聖書の御言葉で解き明かす必要があります。
聖書の言葉の重要性を今ほど理解していなかった私は、さらに聖書から答えを見つけようというのではなく、この違和感を肉の言葉で説明し、解き明かそうとしていました。

それは、牧師や兄弟姉妹には反抗以外の、何ものにも見えなかっただろうと思います。
当惑させ、傷つけてしまったことがありました。とても申し訳なかったと思っています。


でも今、私は聖書を、イエスをまっすぐに知りたいのです。
一つの”○○教会”、一人の牧師だけから養われるのでは、どうしても教義が偏ってしまいます。それは、図らずして主の御顔の上に別の顔をつけることになると懸念しました。

死の淵と言えるようなところから救われて、受けていれ下さっていた”○○教会”。
私にとっては、あまりに影響力が大きくて、どうすることもできません。
思いを打ち明けても、「反抗」や「心の深いところに問題がある」となってしまいます。この話のかみ合わない状態に、情けない事に、私自身が賢明な応対がどうにもできないのです。

せめて、みんなともっと自由に対話ができればいいのですが、教会の教義の内での議論しかできないのが残念なところです。


私の判断を早急にジャッジしないで頂けたら、ありがたいです。
教会にある物差しではかると、きっと私は「信仰の脱落者、反抗、解決されていない問題が心の奥底にある、権威に服従できない、納得をもとめる、自分の我を通すことを治められない…」などなど、診断されてしまうのではないでしょうか。

でも、神の事、聖書の言葉、イエスについて、私たちは自分が知っていると思うことでさえ、知ってはいないかもしれない…という可能性を考えてみて頂きたいのです。

しばらく離れて、聖書自体、主ご自身を知る事を切に追い求めたいと思います。
最近は、日曜日に顔を出さない事が多かったですが、こういった理由からです。
誰かのせいとかではないので、誰も気にしないでくださいね。
悪いのは、聖書の言葉を覆い隠して邪魔をしている、あの古い蛇であると思っています。


とはいえ、牧師も兄弟姉妹もみんな神の家族である事に変わりはありません。
電話もメールもそのままです!いつでも連絡ください。近況報告し合えたら幸いです。

また、このブログはつづけますので、ここで生存を確認できますから、度々のぞいてもらえると嬉しいです。

また、お会いできるときを楽しみにしています。

ではでは\(^0^)/!


主イエスが私たちと共におられる事に信頼しつつ…!!!



2013年6月26日水曜日

March for Jesus 2013 〜マーチ フォー ジーザス〜

みなさん、March For Jesus(マーチ フォー ジーザス)をご存知ですか?

6月8日(土)に、名古屋市 栄 の久屋広場で、第4回目の「March For Jesus」が行われました。

マーチについて、ウィキペディアからの抜粋です。
マーチ・フォー・ジーザス(March for Jesus)は、クリスチャンが行進する超教派のイベント。始まりは1987年にロンドン。三年間で英国、ヨーロッパ、北アメリカ、そして世界中に広がる。 
 1994年に最初のグローバル・マーチ・フォー・ジーザスがすべての時間帯を覆い、170カ国の1000万のクリスチャンを合同して行われた。最後のグローバル・マーチ・フォー・ジーザスの2000610日までに、総計6000万の180カ国のクリスチャンがイエスのために歩いた。 
 しかしながら、2000年のマーチの組織解散。その後もマーチ・フォー・ジーザスは、様々な指導によって多くの国々で継続されている。  
日本では小坂忠がディレクターを、1993年から2000年までつとめた。

この時代のマーチはポピーは全く知りませんが、大きなムーブメントだったようです。
日本でのマーチは、2009年に以下のような思いで再開されました。
「マーチ・フォー・ジーザス」とはどういう意味を持っているのでしょうか。 
私たちは、…「イエスがこの街の主であり、この国の王である」ことを宣言するためパレードを行います。信仰の行動としてパレードを行い、日本はイエス様のものであり、祈りで、この国を縛っている偶像礼拝のチェーンを霊的世界で壊すのです。 
我々クリスチャンが立ち上がり、イエス・キリストがこの国の神、そして主である事を表明する時です。 
私たちは、日本を愛しています。しかしながら、毎年いろいろな祭りが行われている中、クリスチャンは次第に、教会の中で内向きな信仰に傾きやすくなり、恐れを抱いてしまっています。私たちクリスチャンは、神の力と愛を持っています。 
このマーチに参加して、一緒に宣言しましょう。あなたの人生は新しく変えられるでしょう。そして日本も新しく変えられます。 
ぜひマーチでお会いしましょう!


2013年のマーチの案内


ポピーは、この2009年の初回に参加しています。大雨でしたが、2000人ほどが集まり、雨の中マーチしました。この時、ブラジルの方々が日本中から集まってきました。(参加者はブラジル人:日本人=7:3くらい)大阪からみんなで乗り合いで来たという方々は、喜びで興奮していて、またとても嬉しそうでした。

色とりどりの旗やプラカードを手作りしてきていて、その意気込みに驚いたのを覚えています。私はよく分かってなくて、手ぶらだったので(^^;

賛美、メッセージ、お祈りのあと、名古屋 栄の繁華街を「イエスはあなたを愛しています!」と伝えながら、2000人ほどが隊列をくんで、マーチします。

キリスト教メディアでも紹介されました。
http://www.revival.co.jp/2012/07/post-241.php (レポートは発起人のサントス牧師)


私は、2009年、10年、11年と参加しました。12年は主イエスとの関係を深める事の大切さを覚えさせられていて、イベントにはいっさい参加せずに主を求めていたので、マーチも不参加でした。

そして、今年。天気も快晴!しばらく曇りや雨だったので、マーチ日和です。




開始前。ぞくぞくと集まっています。

さて、マーチのイベントが始まりました。


しかし…。
なぜでしょう?私は、以前のようにこのイベントを手放しで、喜べなくなっていたのです。うまく言葉にできませんが、目に見えて違和感を覚えた事を上げてみますと、こんな感じでしょうか。

・賛美は、コンサートのようなステージや、ヒップホップのようなダンスです。キリストと世のエンターテイメントと関係が持てるのでしょうか。
・クワイヤーの賛美がありましたが、楽器やソロの方々の音響が大きすぎて、まったく聞こえません。
・ブラジルの方々のテンションにあわせようとする日本人司会者の方々。テンション上げていきましょう!的な司会は、無理をしていることは明白です(悲)「フォー!」「イエー!」うぅ…(T_T)要りますか?????
・マーチを送り出した後も、大音響のドラムやギターが、あおり立てます。ステージからは、かなり離れているのに、隣の人と会話もできません。暑い日でしたが、熱中症よりも先に爆音で心臓がやられそうでした。さすがにグッタリ…(==;


以前は、それは元気が良くて、祝福を表しているんだと思って(思い込もうとして)いました。一緒に「イエーイ!」ってやっていました。客観的に見る事ができず、都合の悪い事は見ないようにしていたように思います。

でも…、今はもう無理です!イエスが中心か?人が中心か?気になります。
どうしても全体がイエスのものだったとは、私は思えなかったのです。

マーチ自体、きっと初めはイエスへの純真な思いから出てきたものだったのでしょう。
また、ブラジルの方々は、年に一度、ブラジルから来ている兄弟姉妹と、キリストにあってマーチできることは、とても意義のある事なのかもしれません。ブラジルの方がテンション高いのも国民性ですよね。

問題は、私たち日本人です!
カーニバルみたいな文化のない私たちが、ブラジルの方に合わせて無理してテンションを上げても、それは聖霊による喜びとはほど遠い、まさに” フェイク(にせもの) ” ではないでしょうか。無理してるって、案外 見てて分かりますよね…?

たしかに、内向きになりがちな日本の教会には、外向きになる良い機会になるかもしれません。でも、だからといって、マーチに参加することで、本質までは変わりません。一週間後(いや、ほんの数日)には、ただの日常に返っているでしょう。

私は、イエスの証は、静けさから来るように思えて仕方ありません。

大きく、派手にイベントをすれば、気持ちも高揚し、証もできるような ” 気分 ” になります。「みんなで渡れば怖くない。」って感じでしょうか。

でも、日々の日常の中で、イエスのいのちによって生きる事のほうがずっと大切で、かつ影響力のある事だと思うのです。そこで初めて、証が生きるのではないでしょうか。

地の塩、世の光であるのは、日常の中。いつもの隣人、家族、友人、職場の中でこそ求められている事だと思わされます。

決して、マーチが不要だと言っているのではないのです。マーチ自体は良いものです。
また、喜んで参加している方々も一人一人の信仰で参加されているので、なにも問題はありません。

ただ、喧騒が際立ち、興奮があっても平安がないなら、なんの証になるのだろうと思うのです。

人々の関心を真にイエスへと導くのは、平凡な日常の中に溶け込み、十字架によって新しくされた者として、主を知り、肉ではなく、御霊によって歩むことだけが、求められているように思います。


ヨハネ3:30
あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。


主イエス・キリストとその十字架が、人々に証しされますように。