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2014年3月16日日曜日

すでに、全ては備えられてた。

始めに虚無感に苛まれ始めてから、10年がたって、色んな道を通って今に至ってる。
なかなか感慨深い。
また、ルポの方で順に整理していこうと思っているけど、今思うことがありますよ。

「全ては良かった」って、神様が宣言したのは、7日間で世界を創造されたときでしたよね。
創世記1~2章に、私たち人間が生まれる前、始めの人”アダム”が生まれる前に、神様は私たちに必要な物を全~部!を用意されていた事が書いてあります。

私たちが胸の奥底から深~く安堵、安息して、井戸の水が溢れるように喜びが溢れ出て、すべてが最適にある場所。
人々と共に、いのちに豊かに溢れて生きる事の出来る神の園。
神のエデン(歓喜)の庭の中です!

でもね、アダムたちは蛇の言葉に乗っちゃった。
「神様はあんたらに隠してる事あるよ。この実を食べてみな。目が開かれて、いろいろ分かるようになるよ。まだまだ不足があるんだ。それを知りたくはないかい…?」
って、ことですよね。蛇が誘惑した内容ってさ。

それでアダムたちは、神様が食べたら死ぬって忠告してくれてた善悪の知識の実から食べてしまう。
そしてその結果、彼らは神様の忠告の通~りに、死に至るようになった。

彼らは、全てが完全だった神の大庭の外へ出なければならなくなりました。
神から引き離された者は、神の園にいられないんです。
彼らは損なわれた世界で生きることになってしまったんです。これが、今の私たちの世界。

「死」ってね、神から引き離されている結果です。
すべての供給が閉ざされて、自力で生きなくてはならない世界です。
私たち人間に、必ず「死」があり、「労苦」があるのは、神から離れてしまってるからなんですよ。

アダムたちと、その子孫が生きて行かなくてはならない場所は「死」に支配される世界。
何を成し遂げでも遂げなくても、どんだけいい人でも悪い人でも、最後は「死」によって、全ては無に帰しますね。
そんで諦めきれない人は、銅像をつくったり、作品などを残そうと色々考える訳ですが、ご本人は例外なく「死」まっしぐら~。
「死」に完全に閉じ込められちゃいます。だれか逃れた人いますかね?いませんね。さすがに。

二人は、もう号泣しながら出て行った事でしょうねぇ。
神様も、身悶えするような断腸の思いだったじゃないですか。
本当に辛かったんじゃないかと思うんです。


でもね。イエス様はついて行った。
彼らを追って。一人、彼らを追いかけていった。

エデン(歓喜)の園から、一つの川が出ていて、それが世界に流れ出る4つの大きな水の源でした。(創2:10)
これが、いのちの水。私たちの唯一の希望。メシア(救い主)です。

人はついに、とげのある柴に引っかかって、身動きとれない羊のようになった。
羊は、自分で自分の事が分からない動物なんす。
メ~メ~もがけばもがくほど、柴が絡まって、身動きとれなくなっちゃうのだ。
自分じゃ、自分を助けられない、気の毒な生き物。「羊さん」。
それ、私だったですわ。

そこへ、メシアが助けにきてくれました。


コレに絡まってた。自力じゃ出れんて。

私たちを追っかけて、ついて来たメシア(救い主)は、地上での歩みの最後に十字架の上で「完了した」という宣言をされました。福音書にありますね。(ヨハネ19:28-29)
始めであり、終わりであるお方が、「完了した」永遠に渡ってなされた宣言です。(黙21:6)

「完了した」ってね、どういうことだと思います?

「完了した」は、7日目に神様が創造の業を完了したのと同じですよ。
エデンの園から出ちゃった私たちの購い、神の意図された聖い者に完全回復させるために必要な手続きが、全て終わった。完全に完了!したってことです。
「あなたたち、神の子に戻っているよ!」ってこと。ふふふ。それ信じます?

じゃね、私たちは「今」どこにいるんでしょうね?
自分はどこにいるって、自覚していますか?

私は、驚いたんですけどね。
私は今、「神の庭」にいます。「神の大庭」の中ですよ!
「エデンの園」神の歓喜(エデン)の庭の中にいるんです!

マ・ジ・か~~~!!いつの間に…?
って、メシアが「完了した」って言ったその時からです。知らんかったケド!

世界は、死に支配された世界です。私の身体は、人生は、この死の世界にあります。
あの古い蛇は、この世界を壊そうと色々画策していますね。
最近のニュースみてると、ホントそう思う。

でもね。勝手にやってて。ははは!スゴイことよ。
私がいるのは、神の庭。神の懐の中にいるんです。

まだね、見えてないことも沢山~~ん、ありますサ。
でもね、パズルのピースを一つづつ発見しては、はめていっているみたいです。

聖書の言葉が分かるたびに、少しずつ絵が出来て行きますよ。
神の御顔が見えるようになってきました。
御顔が見えるようになるにつれて、自分自身がどんどん自由になっていきます。

私はすでにね、「神の意図された姿に回復されているぅ!?」って分かったのも大発見でした。
まあ、30数年…。損なわれた人として生きて来たから、いらん記憶が邪魔をしたりすることもありますけどね。
回復された人として生きることの楽しいレッスンの日々です。

今までは、まだ「ない」。まだ「だめ人」って思ってたもんだから、何とかしようと足掻いて、変なものを掴んだりしてたみたい。
でも、もうすでに「あった」んです。すでに「神の完全な新しい人」だったから、もう足掻く必要なかった~。
んん…?だれかが、だれかに騙されたときと、似てるような…???

今はね、静か~に、注意深~く、神のことばに照らして見分けながら、神の用意してくださってるものを受け取って行く毎日です。
それは、私が望んでいたモノよりも、ず~~~っと良いモノなので驚いています。

福音てね、コレだったんじゃないかと思うんですよね。
「神の園に戻っているよ!」「神の意図された姿になっているよ!」
コレだったんじゃないかいな。


御言葉を探求して生きる日々は、主と親しくなっていく日々です。

詩篇 84篇 2節
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。






2014年2月14日金曜日

雪景色〜!


朝、起きて窓の外を見ると、一面の雪景色!
ここは、どちらかというと温かい地方なので、こんなに雪が降ることも、つもることも珍しい出来事です(^^)

電車は動いていますが、駅までの移動が危険なので、自宅で様子を見ています。






ソチオリンピックでは、羽生結弦選手が、国際大会のSPでは史上初の100点越えっていう高得点でSP1位!すごいゾ~!
そして、高橋大輔は4位、町田樹は11位。
これからのフリープログラムがとても楽しみですね。





はじめ、羽生選手が登場し始めたときには、肩にリボンのオトメン(乙女+Man)ぶりに、「なんじゃこやつは~!」とか思ってたポピーです(^^;)
でも、うちに秘めた闘志は、なかなかの男前!

先日、羽生選手の特集が放送されていましたが、彼はプログラムの構成をノートに書き出し、注意するところや、意識するところを細かく記入して確認をしているそうです。
始めから終わりまで、まさにその隅々までを把握して、自分自身のものにしようとしていました。

こういった積み重ねが、あの安定した演技になっているのでしょうね。
たいした19歳です。感心感心~~(^0^*)!

ポピーは、日々の営みのなかで、「努力」というものはいのちの一部なのだと思っています。
あれこれ苦しい思いをするという「苦労」じゃないですよ〜どよよ〜ん(-”-)
「努力」 心を込めて事にあたること。(骨をおって)事の実行につとめること。つとめ励むこと。の方です(^0^)

以前は、”「努力」自体も人の手の業なのかな?” と宗教的に考えていたので、何に取り組むでもグッと打ち込む事ができず、もの凄くフラストレーションを感じてたんですよね(-_-;) なにやってたんだか

私たちの「救い」自体は、神様の一方的な御業!
そして、一人一人の人生の営みは、その完成され回復された主の懐のうちで「喜び」「楽しん」で人々と共に生きる事!
その中には、与えられたものを用いて健全な努力をすることも含んでいるのだと思っています。

なぜって、何かにチャレンジするとき、または何か問題が起きたとき、これを主と共に、主の知恵によって乗り越えよう!と前を向いて行動しているとき、どうでしょう?

私はそこに、喜びがあるのを経験してしまうんですよネ(^^)


2013年12月23日月曜日

喪中の家で永遠を思う


伝道者の書 7:1〜4
 
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。 
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。 
知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。


先日、父の兄である叔父が白血病で亡くなりました。
私は、長女であるので、この土日は納棺から、初七日まで全てに参加しました。

叔父は、生前私たちの町会議員を勤めたり、福祉活動に協力したり、地域にとても貢献した人でした。それで、今回の通夜や告別式には、今まで見た事のないほどの沢山の人々が来てくださって、正直、驚きました。

私は叔父について、中学校くらいの時期の記憶しかなかったです。
車で5分の近所に住んでいながら、…いや、むしろ近所だからか、叔父が地域において、どんな貢献をしているか、また苦労をしてるかも、全然知りませんでした。

また、お手伝いの青年が50人以上集まっていて、手際よく準備をしています。
「消防団とか青年団とかの方かな〜?」
と、思っていたら、それは叔父の子供たちである、私の従兄弟たちの高校の友人たちだそうです。新聞で見て、自発的に集まっているのだそうです。それが普通なのだとか。

私なら、そんなふうに友人たちがお互い自発的に集まるなんて事はありえません…。
ずっと地元で生活し、その地域の活動に協力して、少しずつ絆が育まれていたからこそなのだろう…と、親族たちが話していました。

今まで「”教会”中心」なんて”宗教”してきたこと、疑問に思って長らく悩んだ期間…、本当に時間を無駄にしてしまったことを悔やみます。

聖書の言う、神の単位は「家族」単位。「家族中心」です。
もっと早くに親族や地域に目を向けて、交流をもつ必要があったと思いつつ、今からは、家族、親族、地域を大切にしていくことに喜びも覚えました。


私の地元は、葬儀の時は明るく楽しく盛上がるのが習わしのようで、久しぶりに集まった親戚と、そりゃまあ大いに笑い、盛上がっていました。火葬の時までは。

告別式が終わり、火葬の順番がきて、皆で棺桶の遺体に花を添えていきます。
そこで初めて、みな静かに涙を流していました。父は、じっと叔父の顔を見つめていました。
皆で遺体の横たわる棺桶を火葬場に運びました。

静かに、棺桶が火葬炉に入っていきます。
扉は、ゆっくりと閉まっていきますが、扉の閉じる最後の一瞬は、なぜかドキっするように早く感じました。
控え室で待つ時になって、ようやっと人の一生涯の儚さを突きつけられたようでした。

私たちの一生涯は、本当に儚い。
日々にあった、喜びも悲しみも、悩みも安堵も、苦労もその報われた満足も、存在する理由はなんであっただろう…。部屋にかすかな空しさが漂いました。

本当に大切なこととは…。

それが、ふと永遠を思うとき。それが神に気付くときのよう。
人知を越えた、大きな営みの有無を、思い巡らすときのように感じました。

そこには、静けさがありました。


詩編 90:10-12 
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください

2013年11月11日月曜日

9年目の分岐 支流へと

みなさん、こんにちは(^^)
11月に入り、大分寒くなってきました。
どの季節も良さがありますが、ポピーは冬も大〜好きです。
寒いんですが、その分、お部屋を暖房で暖めてヌクヌクするのがたまりません♫
今は、どれだけでも温かく過ごす事ができますから、冬はあったかさの幸せ〜♡を感じる事のできる季節です。

さてさて、少々ご無沙汰してしまいましたが、この2週間ほどで、色んな事が激変してました(^0^;) 記録もかねて、ありのまま書いときます。

以前、教会から離れる事をひとり決意したことをお話しました。(「3年間で出した結論」)その時は、この葛藤を上手く説明できず、話の噛み合なさに対応できない事に非常に苦慮していました。
でも、その時から気になったいた聖書の言葉は…。


箴言 8:12
知恵であるわたしは分別を住みかとする。 そこには知識と思慮とがある。

う〜ん(汗)「知恵」とは「神の言葉」。すなわち「私たちの主イエス」ご自身のことです。イエスは分別を住かとしておられるとは…。8年も親しく集っていながら、黙っていなくなるって…。分別のある対応かしらん??購読してる雑誌だってあるのに、困らせてしまうやろ…。

でも「とにかく離れよう…!」とひとり決意した後、不思議な事に急激に思考が整理され、明瞭になっていくのに驚きました。
これならば、冷静に話ができると思い、「やっぱ、ちゃんと話をせねばっ!」と、思い切って所属していた教会の牧師先生と話をする機会を頂きました。
目的は?顔と顔を合わせて、ありのままを話をし、「信頼関係を取り戻すため」!

(電話するときは、なぜが心臓バクバク、お腹はピ〜、呼吸は浅く、目眩くらくら〜なほど、緊張しました。いや本来、緊張する必要さえないんですけど、なんででしょうね?)

とにかく聖書は「人間関係の健全」さ、「人々との関係をできる限り平和に保つ事」を求めておられます。神様は、人々が互いに健全に関係し合うこと、大切にし合うことを重視しているように思います。

その週末にさっそく時間を取ってくださり、”教会”において、私自身が疑問に思っていることについて、6時間も時間をとってお話しすることができました。(先生、ありがとうございます(感謝))

そこでの内容はダイレクトにあかしすることはしませんが、牧師先生の考えをできる限り聞かせて頂く事ができたかと思います。また、私自身が求めている事も、分かち合えたのではないかと思います。(だとイイな…^_^;)

それをふまえて更に2回、日曜の礼拝に集いつつ整理した結果、8年間集っていた教会を離れ、さらに聖書について深く学ぶことのできる教会に集うことを決めました。


11月3日(日)の礼拝後、牧師先生のところに尋ねて行き2点を理由としてお伝えしました。

▼一つは、もっと聖書自体を深く学びたいってこと。
一人の牧師先生からの教えだけでは、先生の理解範囲と理解レベルで頭打ちになってしまうので、自分はさらに深く聖書自体を学んでいきたい。

▼もう一つは、牧師先生からのトップダウン、右に倣えでの一致を目指した組織体系の教会より、牧者から御言葉によって養われながらも、牧者も信徒も一緒に話し合いながら、問題を解決したり、聖書を学んだり、ミニストリーを立ち上げたり、判別をしたりする教会(群れ)に集いたいということ。

牧師は静かに「分かった。」と一言いってから、「祈ります。」といって、なんと出立の祝福を祈ってくれました(ビックリ)!
そして、教会の交わりにも「もともと何の制限も設けてない」ので来ても良いといわれ、兄弟姉妹との関わりも持ち続けることができるようになりました(ビックリ)!
いや〜我らが先生は、さすが男前です(←ちょっと違うか)

私は「教会を離れる」っていうと、「断絶っ!」って感じに、とても破壊的なもののように思って恐れていました。まるで、自分の指を自分で切り落とすような辛さですよね。
(あ〜、だから今までは動揺して話ができなかったんでしょうか?)

とにかく、お互いに顔を合わせてちゃんと話をすること、分かち合う事はなんて大切なことでしょうか。
それをしないと、疑心暗鬼が、私たちの関係を破壊して行ってしまうようです。それはあの古い蛇の思う壷。そうはさせたくないですよね!



その日、そのまま会えるだけの兄弟姉妹に会って、教会を変わる旨を話し、挨拶をさせてもらいました。今まで、そんな事を考えていたなんて話してなかったので、驚かせてしまいましたが、この本当に麗しい神の家族の兄弟姉妹は、こんなポピーを残念がってくれ、またこれからの事を励ましてくれました。ありがとう。
「挨拶して出て行く人はじめてだ〜!」と笑ってくれた姉妹がいました。ほんとそうですね。いつの間にかいなくなっちゃう方が多かったナ。そんなの寂しいですよネ。
祈ってくれた姉妹たちにも、感謝。本当にありがとう。

これからは、モリエル・ミニストリーズで出会った方々の教会になんとSkypeで集いながら(←今風デス〜)、聖書を更に深く学んでいきます。
また、名古屋でのモリエルの聖書セミナーの手伝いを奉仕として手伝っていきたいと思っています。

とはいっても、またちょこちょこ今までの教会にも顔を出すので、みんなと近況報告でもできたら嬉しいな〜!


2005年の1月に、初めて教会にいってから、9年目ですね(今まで8年と思ってたけど9年たってた)色んな事があったけど、どれもすべて必要な事だったと思います。牧師先生や兄弟姉妹の支え無しには、のりきって来れなかっただだろうと本気で思います。
感謝・感謝・感謝です。


さて、これからは、主ご自身につながりながら、色んな兄弟姉妹と交わりを持って行く事になります。
ど〜なるのかは、今の時点ではまだ良く見えませんが、ただこの日常を主のいのちで目一杯楽しみながら、御言葉を通して主ご自身にグイグイ迫って行きたいと思っています♫


教会の牧師先生はじめ、兄弟姉妹を感謝し、また祝福を祈りつつ…!!!





2013年9月5日木曜日

Shalom シャローム 和解の安堵と喜び






初めの人、神の子アダムが、悪魔に聞き従って神に背いたために、私たち人類は神の怒りの下に置かれ、呪われた者となりました。
各々が短い人生を少しでも幸せに過ごそうと、各自の信じる幸せになれる道を四苦八苦しながら生きています。

創り主との断絶。私たちが、その全存在を全面的な信頼で委ねることのできる、唯一の本当の父との、断絶。

それは、実際どんな苦しみだと感じておられますか。

私は、神との断絶の苦しみを経験するとしたら、おそらく、人間関係が壊れた時の苦しみが近いのではないかと思います。

親しく交わりをしてきた、家族や友達、教会の牧師や兄弟姉妹、会社の同僚。よくいくお店でいつも話しをする店員さん、メル友、ブログ友、今だとLine友とかもあるのかな?
どんな程度でも、どんな関わりでも、人と人なら、それは立派な交わりですよね。

お互いがお互いを受け入れていて、親しみがあり、楽しさがあり、尊重しあい、信頼しあい、支えあっている。
そこには、安堵があって、それは心地良く、喜びがおおってくれてます。

私は、人との交わりが本当に大好きです。人が大好きです。
一人一人が、それぞれの人生を懸命に生きてる。高価で尊い、一人一人との交わりはとっても楽しいものです。


でも、その楽しさ、うれしさ、温かさを味わった親しい関係が、何かの出来事で突然壊れる。関係が破壊される。
取りつく島もなくなり、対話が成り立たない、意思の疎通は完全に途絶える、疑心暗鬼が心に忍び込んでくる…!

その原因がなんであれ、今までそこにあった交わりが壊れると、大変なダメージを受けます。その時の戸惑いと動揺。身悶えするような苦しみ。思うだけでも身震いがします。
みなさんも、長い人生、一度や二度は、経験がないでしょうか。

私は、なかなか動かなかったいつもの体重が1kg、余裕で落ちました。ははは(^_^;)


そう、それがアダムとの交わりが断たれた、父の苦しみだったのではないかと思ったのです。


エレミヤ書 31章 20節 
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは  彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。  ——主の御告げ——


Shalom(シャローム)は、あいさつとしてかわす言葉ですが、意味合いは「平安」。
でももっと具体的には「敵対した関係が、和解をして壁が取り払われた。交わりが回復して、安堵が広がった」という意味合いだと教わったことがあります。

そうです。あの安堵です。
経験したことがある方は、分かると思うのです。どうでしょう?

暗い暗い壁が、消え去った。重い重い垂れ幕が、取り去られた!
光が射し込み、あたりを照らす。互いの顔に笑いがこぼれる。
これこそ、本当の安堵と平安の満ちるときです。

互いに和解をして、互いに交わりをもって生きること。それは、神様の姿に似せて作られた私たちにとって、絶対に必要な、絶対に守りたい宝なのです。

だから、神は、私たちが互いに平和を保って、人々との交わりを豊かに健やかに生きて、その人生を楽しめるよう、聖書にその秘訣を事細かに、しかも神ご自身の指で石の板に記してくださっています。

イエスが肉体をとって、地上に来られ、想像を絶する十字架のあがないを成し遂げてくださったのは、まさに、父である神と、子である私たちとの和解のため。

それは、「私たちのため」と言うよりも、父なる神様の安堵と喜びのために、神のひとり子 イエスが、私たちの身代わりになってくださったのです。

父なる神が、私たちを集めて、その懐の内に取り戻すため。
その父の喜びが、私たちのうちに溢れ出るために…!



友との交わりが壊れた。

交わりを壊すように策略を巡らした悪魔を私は憎む。
悪魔の策略にのってしまった、罪残した友の”肉”を私は憎む。
悪魔の策略を退ける責任の自覚と、その努力を怠った友に、憤りを覚える。

でも、友の魂、その存在、友の内に住む御霊、主イエスを私は愛している。
だから、交わりの破壊は、私の心にも大きなダメージをもたらした。

その友が、和解の言葉を送ってくれた。
私の悲しみは、差し込む朝日の光を受けた、朝露のように消え去った。
重くのしかかっていた黒い霧は消え去り、身体は健康を取り戻した。

もちろん赦すにきまっている。
むしろ、赦させてくれて、その機会をくれて、私はとてもとても感謝している。

でも、ごまかすことのできない事がある。
壊れた信頼は元には戻せないということ。信頼の回復には長い時間と実績が必要となる。
人は、あくまでも自分でまいた種を自ら刈り取ることになるから。

私は、それを担うことはできない。
それは、神が定めたことだから。どんな言い訳も通用しないこと。


でも、敵の策略に気づいて、すぐに神に立ち戻った友を私は尊敬する。
私たちは主に直接お会いする時まで、完全ではないから、あるときイエスを忘れて、とんでもないことをしてしまう危険は、誰にでもある。
私だって、道からはずれて間違いを犯す可能性は0ではないのだから。0にしたいけど。

その時は、友のように、イエスの御前に進み出る者でありたい。
自らの過ちに気づいたとき、ただちに相手に謝罪を伝える、そんな、イエスに対して素直な者でありたい。

友のように、私もイエスと親しい親友になりたいと思った。


友が笑ってくれるように願っている。







2013年9月3日火曜日

なんてことだろう…!

ちょっと、聖書を学んでいて、ショックだったので。メモ書き程度ですが、分かち合いを。

6月のミドラッシュのセミナーから、旧約聖書(本来は、旧ではなくタナクと言う。聖書の本体)の学びと、ヘブライ文化や思想から読むように、学びを始めて来ました。

ヘブライ的聖書の講釈をする講師の説教だけでなく、ユダヤ人ラビの福音書の研究書や、言語検証なども翻訳されたもので、手に入る物をできるだけ取り寄せています。(翻訳物は、ほとんどが古書しかなく、また絶版のものも多いので、そろそろ英文の原書を取り寄せて学ぶ必要になってる。)

ただ、それだけ調べただけでも、今までの聖書理解が、西洋文化や哲学、心理学に汚染されてしまったものだった事が確認でき、痛いほどいよく分かりました。
私は、まったく検討違いな所にいて、イエスを探してもがいていたのです!

私自身、御霊が内に住まわれている事は、間違いありません。それは、信仰的にも経験的にも確信があります。
でも、いのちを共にしているはずのイエスとのコミュニケーションが円滑でないのはなぜなのか。
イエスの実体に手応えが無いのはなぜなのか。それを見い出したかった。
正直になれば、みな同じ実体のなさを感じているのではないでしょうか?

私が、イエスに求めに求めて、今たどり着いたこと。
それは、イエスが生きられて、人々に直接語りかけられた、時代の文化、思想にまで立ち返ること。紀元前一世紀のヘブライ文化とヘブライ語、ヘブライ慣用句(「さじを投げた」とか「骨が折れる」のような文化の中で意味が知られているもの)を学んで聖書を読み、「理解する!!!」事が必要だということです。

新約聖書は、なんと言うか…、実は「上澄み」にすぎない。(「すぎない」は言い過ぎですが、思い切ってそう表現しました)

神ご自身、そしてイエスの実体は、ヘブライ聖書(旧約聖書)にあります。
それも、モーセ五書といわれる「トーラー」こそが、その本質。土台。
いや、「トーラー」こそ、主イエスご自身です。


※ 本来は、文献によって、それを説明すべきですが、今は、独白でお送りしております:)


「トラー(モーセ五書)」が、聖書の土台です。
旧約聖書とよばれるタナクの預言書や諸書は、すべてトラーを土台としています。
そして新約聖書とよばれる、イエスの受肉と、十字架と復活、それ以後のイエスとその弟子の働きは、すべて、タナクの成就として現在に至っているということです。

これは、ショックです。私は、ショックでした。

はじめ、人に聞いた時は、喜んでいました。鍵を見つけた!と、希望に沸きました。
でも、自ら調べ学んで、理解したとき、それは突っ伏すほどに、脱力するほどにショックを感じたのです。今までの9年近く、なんて無駄な足掻きをしたのか。すぐ、近くにあったのに、ずっと気づかなかった。

でも、これがスタートです。
事実を知ることは、的に向かう正しい道に立つ事を意味しています。

私たちは、聖書自体を自分の生まれ育った価値観で読んではいけなかったのです。
今までの自分はすべて死ななければ。
知識、経験、知恵。一度、捨てて幼子にもどる必要があります。

私たち異邦人は、古来より神により育まれた、古来より神によりその教えが温存されているユダヤより学ばなければならないと切に思いました。

もちろん、その中にも人の教えが混ざり込んでいることは現実であり、現状でしょう。
でもイエスを信じる者は、共同相続人の証拠として、御霊が与えられています。
御霊が見分けさせてくださる。なにも心配はいりません。

この、神の仰せに注目してみてください。


ゼカリヤ書8章


20
万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。
21
一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
22
多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」
23
万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」



私の心は、今この思いではち切れそうになっています。

2013年6月13日木曜日

被造物の輝き

紆余曲折を経て、4月から今の職場に通っています。
その職場のすぐ横には、とっても広くて緑の木々いっぱいな公園があるんです。
一回りするのに30分ほどかかる、ゆったりした素敵な公園で、お昼休みにウォーキングしてます。


小川もつくってあって、いろんな鳥たちが仲良く水浴びしています。
奥にマンションが見えますが、とっても街中なんですよ。
でも、木陰や水辺は涼しくて、空気が澄んでいます。
木々のざわめきに風の音がとても心地よくて、思わず深呼吸〜♪




そして、なんとビックリ!
鴨の赤ちゃんの誕生にも遭遇!この写真で見えますか〜〜(^^;
わお〜♡ 手のひらよりも小さ〜い、小鴨ちゃんたちです。

お母さんの周りをクルクル泳いでマス ♪
(水はちょいと濁ってますケド〜)

小さくても足には、ちゃ〜んと水掻きがついてるし、植木鉢の上にちょこんと乗って、お水もコクコク飲みますよ。
いや〜 ♪ これからの成長が楽しみです。


ローマ人への手紙 1章 20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


私は本当に、自然というのは神様からの私たちへの祝福だと実感しています。
もちろん、自然というのは、癒しもするし、襲いもする。

でも…、木々を見上げれば、イエスのいのちが私のうちで新しいいのちの木を育ててくださっていることを思って、嬉しくなります。
小鳥たちの無邪気な交わりを見ていると、父なる神様の庭での健やさ楽しさを見ているようで、これまた嬉しくなります。
なんだか心の頑さが、敗北していくのを感じるのです。

神の被造物である自然をもっと楽しみ、味わいたい。そこには、父なる神様を見る事ができますから。

そして、私はなんだか、主イエスの語りかける声に耳を澄ませるよう、私たちを助けてくれてるように思うのです。




2013年5月26日日曜日

Growth of a mustard Seed



このブログのタイトルです。「からし種の成長」
(英語が得意ではないので、これで合ってるか、ちょっと自信ないですが)

これは聖書のみことばから頂きました。

マタイ17章20節
…もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

わたしの内には、イエスから与えられた信仰の種があります。それは、からしの種(ほんの1mmくらい)ほどの小さなもの。でも、小さくても混じりけのない信仰です。
この信仰があれば、私たちには、” できないことはなにもない ”と、イエスご自身が教えてくださいました。

イエスを救い主と信じた瞬間からの歩みは、今までの自分の努力による生き方とは全く異質のものとなります。好みも変わるし、求めるものも、人生に望んでいることも変わっていきます。
でも、そういった変化があることを知らずにいると、相変わらず今まで好みや、経験で得てきた生き方に固執してしまい、本当に葛藤するし、苦しみます。

あ〜、ホントウに私がそうでした。いまでも、「あ、また!古い生き方をしてる。イエス様によって生きてるんだった。」と気づいて、新しい生き方に戻ることもしばしばです。

イエスが教えてくれている、新しい生き方というのはコレです。

マルコ4章26節
…「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、27夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。28地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。29実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです

信仰によって実を実らせるには、内にある信仰の種の成長が必要です。その種を成長させる事を自分の努力、計画、行動でしようとするのが、古い生き方。

種は、自分で体を伸ばしたり、成長を早めたりして頑張っていませんもんね。
それと同じで、私たちの内にある信仰の種が、今この瞬間も神様によって成長させてもらってる…。と、神様に『信頼』していることが大切だと分かりました。神様にお任せして、自分で足掻かない!

そして、好みが変わっていくのを安息の内に受け取っていきます。いえ、それは「古い好み」とイエスによる「新しい好み」とを交換していくという感じでしょうか。

私たちの側でおこなう、唯一の努力といえば、信頼し続けるということだけのようです。
それはとてもワクワクする、希望の伴うものだと、今は実感しています。