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2014年3月31日月曜日

聞くに深く、語るに遅く…

一つの事柄でも、10人の人がいれば、10通りの見方や受け取り方があるみたい。

ある事を、
 楽しいことと取る人
 責任を感じる人
 人にも教えたいと思う人
 誰にも言っちゃいけないと思う人
 問題と感じる人
 嘘だと思う人
 知ってしまったことにプレッシャーに感じる人
 忘れちゃう人
 前代未聞と受け取る人
 よくある話と思う人 などなど~。

だから、できるだけ、色んな人の意見や、印象や見方を聞きたいと思う。

自分の見てることや感じてること、思ったことは、自分目線の一方向からの認識にすぎないと分かって来たのは、30代を過ぎてからかな。

20代の頃は、自分の見方がおおよそ正しいと思っていた。
「あれって、こういうことだよね。」「あの人、こう思ってるよね。絶対!」
女子には、こういった会話が多いのではないかと思うのですが、どうでしょう?

でもその見立ては、意外に外れていることが多い…。
けど、自分は当たっていると思い続けているってことないでしょうか。

なぜって?
ふふふ。答えは簡単。「確認」しないからですよね。

実際、本人に確認もしないのに、調べもしないのに ”事実” を知っている気になっている。

これがね、「外れてた!」と知るときの、あの無様さったら、たまりません。
私は二度と、あの無様さを経験したくないです(ブルブル)

だから、仮説はたてますが、できるだけ事実の確認ができるよう、情報を集めるようにしています。
そして、複数の意見を聞きたいと願っています。

特に、自分と違う意見を聞くのは面白いです。
でも、どうやら私たち日本人の多くは、「違う意見」を受け入れるのが難しいみたい。

なんか、個人の「人格」を否定されたように感じてしまうのかな?
自分も、そんな心が萎縮するような感じがするときがあるので、分からなくないです。

日本では、「議論をする」という訓練がされていないせいではないかと思います。
「それは、なぜですか?」という一言で、恐れて萎縮してしまう人もいる。
話の聞き方、引出し方を工夫してあげる必要があるみたいです。

あと、自分と同じ意見でないと、すぐに「反対」意見。
大げさに言うと「敵」ってことになっちゃう傾向があるようにも思います。
これでは、人々の多様性から良いものを引き出すことはできません。

意見交換や議論の目的が何であるのか、分からなくなります。
人がコミュニティでいることの利点は、多数の目線から、いま出来る限りの「正解」に、「真理」に共に迫って行けることではないでしょうか。

多数の目線から、出来る限りの「客観的な事実」を得て、「真理」に迫る。
これが、健全な議論の目的なのだと私は思います。

各々の意見なんて、ただの情報にすぎないと思うのですがどうでしょう?
各々の持っている ” 意見、提案、事実認識 などなど = 情報 ” を交換しあって、お互いに視野を広げることが、健全な意見交換、議論の場だと思います。

家庭でも、友人とでも、会社でも、いろんなコミュニティでも。
それが、聖書のみことばの溢れる知恵によるものであったら、本当に最高です。

異なる意見、大歓迎!
聞かせてほしい。どうして、そう考えるのか。
あなたの見てることを私も見てみたい。

それは、「相手のことを理解する」ことでもあります。
たしかに、これはとても難しいことですワ。
でもこれこそ、人間関係を育むために、一番大切なことのように思うのです。

聞くに深く、語るに遅く…。
今、心がけている楽しみの一つです。


えっ?できてるかって(汗)?
いや〜、日々、再トライの繰り返しですぅ〜〜!!!



2014年3月16日日曜日

すでに、全ては備えられてた。

始めに虚無感に苛まれ始めてから、10年がたって、色んな道を通って今に至ってる。
なかなか感慨深い。
また、ルポの方で順に整理していこうと思っているけど、今思うことがありますよ。

「全ては良かった」って、神様が宣言したのは、7日間で世界を創造されたときでしたよね。
創世記1~2章に、私たち人間が生まれる前、始めの人”アダム”が生まれる前に、神様は私たちに必要な物を全~部!を用意されていた事が書いてあります。

私たちが胸の奥底から深~く安堵、安息して、井戸の水が溢れるように喜びが溢れ出て、すべてが最適にある場所。
人々と共に、いのちに豊かに溢れて生きる事の出来る神の園。
神のエデン(歓喜)の庭の中です!

でもね、アダムたちは蛇の言葉に乗っちゃった。
「神様はあんたらに隠してる事あるよ。この実を食べてみな。目が開かれて、いろいろ分かるようになるよ。まだまだ不足があるんだ。それを知りたくはないかい…?」
って、ことですよね。蛇が誘惑した内容ってさ。

それでアダムたちは、神様が食べたら死ぬって忠告してくれてた善悪の知識の実から食べてしまう。
そしてその結果、彼らは神様の忠告の通~りに、死に至るようになった。

彼らは、全てが完全だった神の大庭の外へ出なければならなくなりました。
神から引き離された者は、神の園にいられないんです。
彼らは損なわれた世界で生きることになってしまったんです。これが、今の私たちの世界。

「死」ってね、神から引き離されている結果です。
すべての供給が閉ざされて、自力で生きなくてはならない世界です。
私たち人間に、必ず「死」があり、「労苦」があるのは、神から離れてしまってるからなんですよ。

アダムたちと、その子孫が生きて行かなくてはならない場所は「死」に支配される世界。
何を成し遂げでも遂げなくても、どんだけいい人でも悪い人でも、最後は「死」によって、全ては無に帰しますね。
そんで諦めきれない人は、銅像をつくったり、作品などを残そうと色々考える訳ですが、ご本人は例外なく「死」まっしぐら~。
「死」に完全に閉じ込められちゃいます。だれか逃れた人いますかね?いませんね。さすがに。

二人は、もう号泣しながら出て行った事でしょうねぇ。
神様も、身悶えするような断腸の思いだったじゃないですか。
本当に辛かったんじゃないかと思うんです。


でもね。イエス様はついて行った。
彼らを追って。一人、彼らを追いかけていった。

エデン(歓喜)の園から、一つの川が出ていて、それが世界に流れ出る4つの大きな水の源でした。(創2:10)
これが、いのちの水。私たちの唯一の希望。メシア(救い主)です。

人はついに、とげのある柴に引っかかって、身動きとれない羊のようになった。
羊は、自分で自分の事が分からない動物なんす。
メ~メ~もがけばもがくほど、柴が絡まって、身動きとれなくなっちゃうのだ。
自分じゃ、自分を助けられない、気の毒な生き物。「羊さん」。
それ、私だったですわ。

そこへ、メシアが助けにきてくれました。


コレに絡まってた。自力じゃ出れんて。

私たちを追っかけて、ついて来たメシア(救い主)は、地上での歩みの最後に十字架の上で「完了した」という宣言をされました。福音書にありますね。(ヨハネ19:28-29)
始めであり、終わりであるお方が、「完了した」永遠に渡ってなされた宣言です。(黙21:6)

「完了した」ってね、どういうことだと思います?

「完了した」は、7日目に神様が創造の業を完了したのと同じですよ。
エデンの園から出ちゃった私たちの購い、神の意図された聖い者に完全回復させるために必要な手続きが、全て終わった。完全に完了!したってことです。
「あなたたち、神の子に戻っているよ!」ってこと。ふふふ。それ信じます?

じゃね、私たちは「今」どこにいるんでしょうね?
自分はどこにいるって、自覚していますか?

私は、驚いたんですけどね。
私は今、「神の庭」にいます。「神の大庭」の中ですよ!
「エデンの園」神の歓喜(エデン)の庭の中にいるんです!

マ・ジ・か~~~!!いつの間に…?
って、メシアが「完了した」って言ったその時からです。知らんかったケド!

世界は、死に支配された世界です。私の身体は、人生は、この死の世界にあります。
あの古い蛇は、この世界を壊そうと色々画策していますね。
最近のニュースみてると、ホントそう思う。

でもね。勝手にやってて。ははは!スゴイことよ。
私がいるのは、神の庭。神の懐の中にいるんです。

まだね、見えてないことも沢山~~ん、ありますサ。
でもね、パズルのピースを一つづつ発見しては、はめていっているみたいです。

聖書の言葉が分かるたびに、少しずつ絵が出来て行きますよ。
神の御顔が見えるようになってきました。
御顔が見えるようになるにつれて、自分自身がどんどん自由になっていきます。

私はすでにね、「神の意図された姿に回復されているぅ!?」って分かったのも大発見でした。
まあ、30数年…。損なわれた人として生きて来たから、いらん記憶が邪魔をしたりすることもありますけどね。
回復された人として生きることの楽しいレッスンの日々です。

今までは、まだ「ない」。まだ「だめ人」って思ってたもんだから、何とかしようと足掻いて、変なものを掴んだりしてたみたい。
でも、もうすでに「あった」んです。すでに「神の完全な新しい人」だったから、もう足掻く必要なかった~。
んん…?だれかが、だれかに騙されたときと、似てるような…???

今はね、静か~に、注意深~く、神のことばに照らして見分けながら、神の用意してくださってるものを受け取って行く毎日です。
それは、私が望んでいたモノよりも、ず~~~っと良いモノなので驚いています。

福音てね、コレだったんじゃないかと思うんですよね。
「神の園に戻っているよ!」「神の意図された姿になっているよ!」
コレだったんじゃないかいな。


御言葉を探求して生きる日々は、主と親しくなっていく日々です。

詩篇 84篇 2節
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って 絶え入るばかりです。 私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。






2014年2月8日土曜日

振り返って…② 捜し求めるなら、見つける


エレミヤ書 29章 13節
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

”教会”のことについて、このまま忘れてしまおうか、どうしようかと昨年から考えていましたが、9年間とはいえ、人生の一部に強く影響を受けて過ごした当事者として、一人の証人として、ブログに記録しておこうと思います。

目的は、ただ一つです。
真実を求めている兄弟姉妹の励ましとなるためです。

信徒であれ、リーダーであれ、牧師であれ、何かしらの指導者であれ…。
キリスト教界や所属する”□□教会”について、またイエスを救い主と信じたけれど、実際の自分自身の実情について疑問を覚えている方々がいます。

私は、正直な方々だと思いますよ!
ほとんどの方々は、自分なりに理由をこじつけてしまい、自分で納得。
決して真理に迫ろうとはしないまま、同じところに留まり続けているからです。

でも、疑問や違和感を持ってはいても、何がどうおかしいのか、判別できずに苦しんでおられるでしょう。
これは、仕方のない事なのです。
聖書の正しい知識がなく、私たちの理解レベルでは、読み取る事もできないからです。
互いに助け合う事が、本当に必要だと痛感します。

今、「本当の事が知りたい!」「聖書には、本当には何が書いてあるのかを知りたい!」と求めている兄弟姉妹が、沢山出てきておられます。

おそらく、まずは牧師や、同じ教会の兄弟姉妹に相談するでしょう。
でも、常に論点がズレていて、ほとんど会話にならないという苦しみを味わうと思います。
それで、次に多くの方が、ネットに情報を求めるのではないでしょうか。
そして、分かち合いをしている人々のブログなどに行き着くでしょう。他の人々も自分と似たような葛藤をもっている事に、容易に気付くと思います。
そして、問題のある教会として紹介されている事例が、自分の教会にもあることをみて、衝撃を受けるはずです。

実際、”教会” で置きている問題は、どれも似たり寄ったりなんです。
私は、本当に驚きました。
それだけ、閉塞した世界に閉じ込められていたということを思い知りました。
牧師が、いろいろと理由を付けて、外部との接触に難色を示す理由が分かります。

教会の ”外” の情報に触れる事自体に、罪責感を持たれる方も多いと思いますが、情報を得れば得るほど、真実に対して、目が開かれて行く経験をするはずです。

葛藤もあるでしょう。
でも、「真実を知りたい!」と調べる事は、むしろ主に賞賛されることです。
勇気をもって、調べ続けてください。
それを嫌がるのは、真実を知られては困る方々だけです。恐れる事などありません。

そんな、同じ苦しみを通った神の家族として、真実を求める方々を応援し、励ましたいと思っています。そして、私にとって助けとなった情報も、参考に分かち合いたいと思います。


私は、洗礼を受けて9年間通った”○○教会”を離れました。
それは「脱出」であったと思っています。

よくぞ、あのとき踏み切ったと、本当に主の内に安堵しています。


振り返って…① 守りたいのは、キリストによるいのち


ヨハネの福音書 10章 10節
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

昨年のことをつらつらと思い返しています。
昨年、年の初めに「これだけはケリをつけたい。」と、切に切に願っていたことは、何年も悩み続けた「教会」に所属することの進退についてでした。

”この教会に、このまま通い続けることは、正しいことなのだろうか?”

説教の内容、日曜の礼拝、牧師とリーダーと信徒のあり方、行事、奉仕、学び(バイブルスタディや、セルリーダー研修)、献金、伝道、セルグループのあり方、交わり などなど。

もう、これだけははっきりさせないと、”人生が窒息させられる” と、本気で考えていました。
でも、”○○教会” に対して、また教会を取り仕切る ”牧師” に対しての批判(非難ではなく)は、神様に対して罪を犯しているのではないかと恐れ、板挟みになって苦しんでいました。

しかし今、私はもう「自分の受け取り方が間違っていたからで、批判的に捉えていた私が悪いのです。」とは言いません。
そうやって、何年も ”自分が悪い” と言い聞かせながらも、しかし常にある不条理に、大変な束縛をされて来てしまいました。

早く気付くべきだったことがあります。ざっくり言うと、この3点です。

・「現実」を客観的に見ること。
・聖書を正しく学び、神が意図した本来の意味を理解すること。
・人には、それぞれの責任の範疇というものがあるということ。

何が健全で、何が不健全であるかを常識をもって見分けることは非常に大切です。
主は「実によって」見分けるよう言われています。(マタイ7:16、12:33、ルカ6:44)
それには、実情を客観的に認識することが必要です。
そして、神の意図した御言葉の正しい理解がなければ、判別することなど出来ません。

そして、こうなります。”クリスチャン” にありがちな傾向の一つ、
「私が全て悪いんです。悔い改めます。」
「私も罪人です。あの人(あの事)を(無条件で)赦します。」

そのように、超自虐的になるか、反動で全て相手が悪いと裁くか。
どちらにしても、束縛による苦しみの道です。
それで当人は御言葉によって取り扱われることはありません。

表面的にはニコニコ朗らかで、仲良しに見えるのです。
でも実質は、違和感や嫌悪感、えも言われぬ不快感や理不尽への憤りによって自覚なく静かに、そして時には激しく魂を蝕まれ、キリストのいのちは窒息し続けることになっています。

個人個人の責任、役割の責任の線引きが曖昧になってしまい、主の前に本人が取るべき責任を取らせずに、他の人がその責任をかぶっている結果です。

この切り分けを聖書にから正しく学び取るならば、毅然として対応できた事なのですが、それがなかなかできませんでした。

なぜでしょう?
一つは、聖書を実際には分かっていないということ。
もう一つは、程度の差こそあれ、ある種のマインドコントロール下の置かれている状態になっているからです。


”○○教会”を出たということは、実質的に、私には”○○教会”に対して痛烈な「批判」があるからです。
そこに居続けることに、多大な害悪があると判断したからです。

愛する兄弟姉妹との交わりを犠牲にしてでも、キリストによるいのちを守る方を選びました。
人に従うよりも、神の御言葉に従うことの方が重要だと考えました。

実際、そうでなければ、人々との健全な関係を育む事などできません。
表面だけの良き関係など、主の目から見てなんの価値があるでしょうか?
違和感を持ちながら、それを分かち合う事のできない関係をどれだけ重ねて、何が育まれるでしょう?

聖書を愛する方々、主を真に求める人々と、神によって与えられたいのちを喜び合いたい。
それを豊かに保つよう、みなで一つ心となって生きたいというのが、私の切なる願いでした。

教会のヴィジョンなど、キリストによるいのちを損なうくらいなら、捨てた方がましです。
イエスがいのちをかけて成し遂げてくださったのは、私たちがいのちを得、それを豊かに持つためだからです。


つづく




2013年10月9日水曜日

3年間で出した結論

皆さん、ご無沙汰しておりました。お元気ですか。

日本は秋まっさかりで、朝のジョギングは本当に気持ちのいい季節となりました。
早朝の空気は澄んでいて気持ちがよく、まだ人や車も少なくて、朝の静けさに浸る事ができます。

日の出が見られたときは、とても素晴らしいです。イエスの購いと復活の朝をいつも思います。
そして、神の救いの契約が今日も継続している事、今は恵みの時である事を思い起こさせてくれるのです。

でも、今朝はとても厚い雲が覆いかぶさっていました。
そんな日は、あれだけ強烈な輝きを放って昇ってくる太陽が、まったく見えません。
雲を照らし、空を明るくして、そこに太陽があることは分かるのですが、太陽自体はまったく見えません。雲の厚みで、まったく隠されてしまうのです。




朝焼けを覆い隠す雲


この一ヶ月ほど、更新がなかったのは、いろいろと整理したい事があったからでした。
そして、ようやっと今の時点での答えに至ったので、分かち合いたいと思います。

10月から、今まで8年間通った教会から、一時離れる事にしました。
それは決して教会の牧師や兄弟姉妹が嫌になったとか、嫌いになったとかいうワケではありません。むしろ逆です。私は、教会の牧師も兄弟姉妹も大好きで、会えなくなる事がたまらなく嫌なのです。


教会に通い始めたころは、牧師やリーダーとしてお世話してくれる兄弟姉妹たちから沢山のことを教えてもらいました。とくに、その信仰の姿勢、生き方を模範として養われてきたように思います。

でも、私たちは地上での生涯をおくる間、一生涯をかけて神を、イエスを、御言葉と福音の奥義を知るために、追求し続ける必要のある存在であると思います。

神を知る事は、一日二日で分かるようなものではないですね。
また、今は私たち一人一人が御霊を頂いていて、以前のように預言者が私たちに神の言葉を取り次ぐのではなく、私たち一人一人が主イエスとの関係を育み、聖書の御言葉によって養われ、神を知り、主イエスの弟子、またイエスにある大人として成長していく責任があります。


3年ほど前、その事に気付いてから、御霊に押し出されるように聖書自体を学ぶ事を始めました。でも、その頃から”教会”との関係がぎくしゃくし始めてしまったのです。
教えられていた事が、全てが全て、正しかった訳ではなかった事に、気付き始めたからです。ビービー泣いては、頼ってばかりいた私は、訳が分からず、今度は抵抗し始めました。

おそらく、全てが健全な環境というのがあるならば、「人の教え」と「神の教え」の判別を学び始めた訳ですから、それはむしろ良い事、喜ばしい事であったはずだと思います。

でも、御霊の事は御霊の言葉、聖書の御言葉で解き明かす必要があります。
聖書の言葉の重要性を今ほど理解していなかった私は、さらに聖書から答えを見つけようというのではなく、この違和感を肉の言葉で説明し、解き明かそうとしていました。

それは、牧師や兄弟姉妹には反抗以外の、何ものにも見えなかっただろうと思います。
当惑させ、傷つけてしまったことがありました。とても申し訳なかったと思っています。


でも今、私は聖書を、イエスをまっすぐに知りたいのです。
一つの”○○教会”、一人の牧師だけから養われるのでは、どうしても教義が偏ってしまいます。それは、図らずして主の御顔の上に別の顔をつけることになると懸念しました。

死の淵と言えるようなところから救われて、受けていれ下さっていた”○○教会”。
私にとっては、あまりに影響力が大きくて、どうすることもできません。
思いを打ち明けても、「反抗」や「心の深いところに問題がある」となってしまいます。この話のかみ合わない状態に、情けない事に、私自身が賢明な応対がどうにもできないのです。

せめて、みんなともっと自由に対話ができればいいのですが、教会の教義の内での議論しかできないのが残念なところです。


私の判断を早急にジャッジしないで頂けたら、ありがたいです。
教会にある物差しではかると、きっと私は「信仰の脱落者、反抗、解決されていない問題が心の奥底にある、権威に服従できない、納得をもとめる、自分の我を通すことを治められない…」などなど、診断されてしまうのではないでしょうか。

でも、神の事、聖書の言葉、イエスについて、私たちは自分が知っていると思うことでさえ、知ってはいないかもしれない…という可能性を考えてみて頂きたいのです。

しばらく離れて、聖書自体、主ご自身を知る事を切に追い求めたいと思います。
最近は、日曜日に顔を出さない事が多かったですが、こういった理由からです。
誰かのせいとかではないので、誰も気にしないでくださいね。
悪いのは、聖書の言葉を覆い隠して邪魔をしている、あの古い蛇であると思っています。


とはいえ、牧師も兄弟姉妹もみんな神の家族である事に変わりはありません。
電話もメールもそのままです!いつでも連絡ください。近況報告し合えたら幸いです。

また、このブログはつづけますので、ここで生存を確認できますから、度々のぞいてもらえると嬉しいです。

また、お会いできるときを楽しみにしています。

ではでは\(^0^)/!


主イエスが私たちと共におられる事に信頼しつつ…!!!



2013年8月8日木曜日

朝の気持ちよさ

今朝もジョギングに行ってきました♫
最近は、朝の空気がとても清々しくて気持ちがいいです。

八ヶ岳や軽井沢にいったときの、高原のような清々しさがありますね。
今日は5:30頃に走りましたが、太陽の熱線が結構するどいので、5:00くらいに行くのがベストかもしれません。
明日は、それくらいに行こう〜っと♫

ジョギングから帰ってきたら、シャワーを浴びます。
タップリ汗を洗い流して、クールダウン。すっきりします。

その後は、アイスコーヒーを入れて聖書を開き、みことばの交わりを持ちますが、なんかジョギングの後に、みことばを頂くと、スーっと内に染み渡るんですよ。
今は詩編を読んでいます。

詩編34編 
1 私はあらゆる時に主をほめたたえる。
   私の口には、いつも、主への賛美がある。
2 私のたましいは主を誇る。
   貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。
3 私とともに主をほめよ。
   共に、御名をあがめよう。 


アビメレクの前で気が違ったように振る舞い、追われて去ったときの歌ですよね。
 恐ろしく、なさけなく、これからどうなって行くのかと不安と恐怖の中にいたのではないかと思うのです。王にするという、神の約束を疑いたくなる場面ではないでしょうか。

でも、彼は主を賛美します!
自分自身を見ずに、主を誇り、主に信頼することを告白しています。

もう、なんだか心のうちが熱くなって、喜びが沸き上がってくるんです。
コチラにまで、賛美が伝染して、私まで賛美があふれてきます。

あははは!良いですね〜。
朝型の生活になってから、朝は、本当に素晴らしい礼拝の時間になるのだということが、分かりましたよ。

以前は、頑張って起きても寝ぼけまなこでぼーっとしながら読んでました。
今は、軽く運動するので、しっかり頭も身体も全身の目覚めいます。
そして、聖書に向き合ったときには、なんとも言えぬ、静けさがあるんです。

いまはもう、病み付きになってます♫

そんな心地良いひとときに、おじゃまむしが…。



黒猫のジジちゃん


こらこら〜!ちょっと席を立つと、すぐに座っちゃうんだから。

夏は、汗をかくので、チェアにバスタオルをしいてますが、それが気持ちいいのか、特等席みたいに寝てるんです。

おねいちゃんが、イエス様とお話してるんですよ〜。

ソファで、休みなさーい。


ではでは、みなさん良い一日を♫


2013年7月23日火曜日

走るときにある喜び

最近、ジョギングをするようになりました。

お昼のウォーキングをするうちに、物足りなくなって、朝や夕方も近所を歩くようになり、さらに気分がよくなって、6月頃からは軽く走るようになりました。

とくに、ポピーは設備設計の補助をしているので、一日ずっと座っています。
なんだか、滞ってる感じがして、動きたいんですよね〜〜(^^;
今は、16時くらいになると、早く帰って走りたくて、うきうきソワソワしています。

走りにいくと、風や虫の声、雲や木々、草花、動物たちが目につくようになります。
身体全体がイキイキとしてきます。汗が、身体が気持ちいい!

走り始めは、まだ少し苦しいんですが、身体と呼吸が規則正しく整ってくると、ゴールも忘れて走り続けそうです。後から風におされて、フワっと飛んだような感じの時もあって、面白いんです(^^*)

あと収穫だったのが、走っていると、なんだか思考が解放される感があるんです。
どうもポピーは過度に思考が走りすぎることがたまにありまして、頭の前の方がいっぱいいっぱいになっちゃうことがあるのです(==;今までは、そういう時は何をしても無駄なので、さっさと寝るようにしていました。(変ですか?)

でも、ジョギングしていてノッてくると、自然と思考が消えてなくなり、なんというか思考が解放されるんです。イメージにシフトしてるのかな?とにかく、楽になります。

そんなとき、私たちの主イエスのこと、今この時にも注がれているイエスのいのち、全てを治めておられる父なる神様に思いが及ぶと、何とも言えず、喜びがわいてきます。自然と、賛美が思いのうちにあふれてくるようです。


今日は、満月を見ていました。
とてもくっきりと、大きく、そして明るい満月です。

月は、自分では輝く事はできませんね。月の輝きは太陽に完全に依存してます。
あの月の明るさは、太陽の光。
夜の暗闇のなか、どんなに一筋の細い三日月であっても、暗闇に消される事はありません。

まさに、私たちイエスを内に宿す者のようです。
私たちには輝くものなど何もありませんが、主イエスのいのちが輝きます。
イエスのいのちの輝きは、常に光り輝いています。

そのいのちの輝きを私も楽しんでいます。

毎日、主イエスの発見があります。
聖書のみことばが、生きたものになる、自分自身の経験となることは素晴らしいですね。

毎日のジョギングが、私の礼拝の時間になりつつあります。



ヨハネの福音書 1章 
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によら   ずにできたものは一つもない。
4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。


2013年7月3日水曜日

ある日の夢の話 〜金のしゃもじ〜

私は、たまに夢をみます。
夢占いは(もちろん)しませんが、何やら印象に残って、教えられる夢があったりするので、ちょっと面白いんです。

ある日見た夢の分かち合いです。

**********

「まねっこクリスチャン」であった私が、ついに人々につまづいて、イエス様を自分自身で求め始めたときでした。
でもそれは、まさに混乱に放り込まれたかのようだったのです…。

その頃には、人に相談しても、実際には解決するどころか、もっと悩み、束縛されるようになっていました。

「ああしなきゃ。こうしなきゃ。これはいけないこと。もっと悔い改めないと。自分がダメだからダメなんだ。ああ、イエス様は私を嫌いかもしれない…。」

どエライことになってました。
今こうやって思い出すだけでも、本当に暗闇のようです。オエ〜。

でも、自分で主イエスご自身を求めるようになってから、問題があっさり解決してしまったり、いつの間にか全く気にならなくなってしまった事柄がいくつもありました。

「なぁんだ!イエスさまご自身を知れば知るほど、自由になるんじゃないか〜!」
まさに、聖書のいう通り!

ヨハネの福音書8章31-32 
31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 
32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

ああ、本当に単純な事だったのですね。

自分自身で、イエス様を求めなくては。
聖書の中に、また日々の生活の中に、そばにおられる主イエスを探し始めると、自然と御言葉が内に住むようになりました。そして、いつの間にか束縛が無くなっていったのです。
どうやら人任せでは、シンプルな真理さえ、つかむ事ができないようです。

でも、はじめのうちは自由に物事が考えれるようになって嬉しかったのですが、次に来たのはなんと … ” 激しい怒り ”でした。

「じゃあ、今までの指導は、アドゥヴァイス(← イヤミ入り)はなんだったの?全部、役に立たなかったじゃない。あんなアドゥヴァイス(← 怒り混入)で、余計に苦しんだよ!知らないなら、教えないでくれた方がよっぽど良かった!」

という、…まあ、逆恨みですよね。

イエスとの関係は、究極的に「イエスと私」二人だけの個人的な問題なんですから。私は、自立せず、完全に甘えていたのでしょう。御言葉を自分で調べることもしてなかったんですから。名付けて「甘ったれクリスチャン」
いやはや…。今は、申し訳なく思っています。

しかし当時、その怒りによって、私は憎しみの牢獄に入れられたかのように苦しみ始めました。その恨みつらみを四六時中、ずぅ〜〜っと!考えているのです。まさに憎しみの炎で焼かれているよう!本っ当〜に、参りました。

そんな、ある夜。このように祈りました。
「神様!牧師もリーダーたちも、本当に必要なことを教えてくれなかったじゃないですか!今までは、一体何だったんですか!」
完全に、人に依存しまくってますが、一方的にイエス様に訴えて、答えも待たずにさっさと寝てしまいました。

…、でも私は、そばにいたもう一人の方を完全に忘れていたのです。

その明け方の夢です。

・。・*。・*・。・・・

私は、大きなお茶碗と大きなお箸を持って、ご飯を食べています。
おかずは一切なし。

大きなお茶碗には、ものっすごくキラキラと輝いたご飯が山盛りです。
輝きすぎて、お米の一粒一粒が乱反射して見えないくらいです。透き通った、クリスタルのように美しいご飯です。

「うっわー!うっわー!おいしい!!お〜いしぃーい(感涙)!!」
と大興奮で、ハフハフ食べています。

ご飯が無くなると、これまたすご〜く大きな、透き通るような金色のしゃもじ(滑り止めのツブツブ付)が現れて、ご飯をよそってくれます。

惜しげもなくご飯が山盛りに盛られるので、嬉しいのなんのって、
「うわー!うわー!うぅ〜わぁ〜〜あ♡(更に感涙)!!」(←興奮しすぎですが)
と喜んで、さらにご飯をホッペタ一杯にほおばりました♪

・。・*。・*・。・・・

と、いう夢です(笑)
兄弟姉妹には、底なしに食べるポピーというキャラクターなので、話してもただの食いしん坊と言われてしまいますが。

でも、目が覚めて、この夢を思い出した瞬間、お言葉がありました。

『私は今まで、こうやって養ってきたではないか。』

その瞬間、思わずお布団にひれ伏しちゃいました!(←ホントにやった)

そうです。そうなのです。
私は、この期に及んで、まだ ” 「人」のアドバイス ” に固執していたのです。

主イエスが注目していたのは、みことばのご飯(パン、食事)だけのようです。

牧師もリーダーたちも、実際に正しことばかりではありませんでした。しかしその人々を通して聖書のみことばは、与えられてきました。聖書に親しむ習慣は、ちゃんと養われていて、通読も一年に一度はいただいていました。暗唱した聖句も、いくつもあります。

そこには、牧師やリーダー、兄弟姉妹たちの助けがあったことは事実です。それは、十分に感謝すべき事だったのだと知らされました。

私自身が、聖書のみことばの真価を知るのは、まだまだ先のことになりますが、みことばの価値を主イエスご自身は、もちろんご存知です。

主イエスはいつも私のそばにいて、ご自身が直接、時には人々を通して、みことばの糧で養ってくださっていたのです!
なかなか乳離れしない、甘ったれな者を忍耐強く育てて下さっていたのだと知り、悔い改め(主イエスの方へ方向転換!)、そして感謝したのでした。


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この時で、すべての混乱が解決したワケではなかったですが、主イエスは私が混乱を抜け出ることができるように、折になかった助けを与えてくださっていたのかな。と、振り返って思います。

さて、夢による「語りかけ」や「解き明かし」は、アブラハム、ヤコブから、ダニエル書などにもありますし、私はイエス様の手段のお一つなのだと信じています。
とはいえ、意味の分からない夢に固執することは、注意深く避けなければなりませんね。

他にも、いろんな夢の話があるので、また「ある日の夢の話」シリーズでご紹介しますね♪


ではでは! 良い夢を…;)☆〃







2013年6月17日月曜日

わたしの「からし種」③

「その箇所なら知っている!ヨハネの福音書1章だっ!」
急いで、聖書をめくりました。

ありました!ありました!ヨハネの福音書1章14節です。

ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そうです。 このみことばです!すごい…。イエス様、教えてくださったんだ。
1章の始めから確認しました。


ヨハネの福音書1章 
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 
2この方は、初めに神とともにおられた。
3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4この方いのちがあった。このいのちは人のであった。 
5はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
6神から遣わされたヨハネという人が現れた。
7この人はあかしのために来た。についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
8彼はではなかった。ただについてあかしするために来たのである。 
9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。  
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ああ、なんてことでしょうか。私は、真理を垣間見たのです。
この世界は、イエスによって作られたのです。イエスはこの全世界の主です。

この1章は、何度も読んだ事がありました。1年に1度、聖書を通読するので、少なくとも4年間の間、聖書の箇所として十分認識していたのです。
けれど、この時みことばは生きたものとなりました。

ことば!ことば!イエス様は、神様のことばが人となられた方だったのです。
ことばはその人格の出現です。ことばはそれを発した方そのものです。
イエスは、神そのものだったのです。

ああ、うまく伝わるでしょうか。
私たち人間の知性では理解できない事です。私は理解していませんでした。
しかし、その時、私ははっきりと知ったのです。それは、知識ではなく、私個人の ” 経験 ” となりました。

聖書の始めから「ことば」という箇所を確認しました。
そして私は、聖書のみことばが、その全てがイエスなのだと理解するようになりました。
聖書のことばは、なにひとつ侮れない。その全てに偶然はない。すべてに何かの意図がある。
この時から、これが、みことばに対する揺るぐ事のない、私の根本姿勢になりました。


そして、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」このみことばこそ、主イエスが私のうちに蒔いた信仰の種、「からし種」です。
1mmほどの、本当に小さい。けれど全く混じりけのない純粋な信仰の種なのです。


いま、聖書を読むとき、私は活字を読んでいるのではありません。
一人、静かに心静まり、聖書を食して(読んで)いるとき、その文字から、イエスの息吹を感じるかのようです。私は自分の呼吸とともに、イエスの息吹を吸い込んでいます。