2013年9月5日木曜日

Shalom シャローム 和解の安堵と喜び






初めの人、神の子アダムが、悪魔に聞き従って神に背いたために、私たち人類は神の怒りの下に置かれ、呪われた者となりました。
各々が短い人生を少しでも幸せに過ごそうと、各自の信じる幸せになれる道を四苦八苦しながら生きています。

創り主との断絶。私たちが、その全存在を全面的な信頼で委ねることのできる、唯一の本当の父との、断絶。

それは、実際どんな苦しみだと感じておられますか。

私は、神との断絶の苦しみを経験するとしたら、おそらく、人間関係が壊れた時の苦しみが近いのではないかと思います。

親しく交わりをしてきた、家族や友達、教会の牧師や兄弟姉妹、会社の同僚。よくいくお店でいつも話しをする店員さん、メル友、ブログ友、今だとLine友とかもあるのかな?
どんな程度でも、どんな関わりでも、人と人なら、それは立派な交わりですよね。

お互いがお互いを受け入れていて、親しみがあり、楽しさがあり、尊重しあい、信頼しあい、支えあっている。
そこには、安堵があって、それは心地良く、喜びがおおってくれてます。

私は、人との交わりが本当に大好きです。人が大好きです。
一人一人が、それぞれの人生を懸命に生きてる。高価で尊い、一人一人との交わりはとっても楽しいものです。


でも、その楽しさ、うれしさ、温かさを味わった親しい関係が、何かの出来事で突然壊れる。関係が破壊される。
取りつく島もなくなり、対話が成り立たない、意思の疎通は完全に途絶える、疑心暗鬼が心に忍び込んでくる…!

その原因がなんであれ、今までそこにあった交わりが壊れると、大変なダメージを受けます。その時の戸惑いと動揺。身悶えするような苦しみ。思うだけでも身震いがします。
みなさんも、長い人生、一度や二度は、経験がないでしょうか。

私は、なかなか動かなかったいつもの体重が1kg、余裕で落ちました。ははは(^_^;)


そう、それがアダムとの交わりが断たれた、父の苦しみだったのではないかと思ったのです。


エレミヤ書 31章 20節 
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは  彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。  ——主の御告げ——


Shalom(シャローム)は、あいさつとしてかわす言葉ですが、意味合いは「平安」。
でももっと具体的には「敵対した関係が、和解をして壁が取り払われた。交わりが回復して、安堵が広がった」という意味合いだと教わったことがあります。

そうです。あの安堵です。
経験したことがある方は、分かると思うのです。どうでしょう?

暗い暗い壁が、消え去った。重い重い垂れ幕が、取り去られた!
光が射し込み、あたりを照らす。互いの顔に笑いがこぼれる。
これこそ、本当の安堵と平安の満ちるときです。

互いに和解をして、互いに交わりをもって生きること。それは、神様の姿に似せて作られた私たちにとって、絶対に必要な、絶対に守りたい宝なのです。

だから、神は、私たちが互いに平和を保って、人々との交わりを豊かに健やかに生きて、その人生を楽しめるよう、聖書にその秘訣を事細かに、しかも神ご自身の指で石の板に記してくださっています。

イエスが肉体をとって、地上に来られ、想像を絶する十字架のあがないを成し遂げてくださったのは、まさに、父である神と、子である私たちとの和解のため。

それは、「私たちのため」と言うよりも、父なる神様の安堵と喜びのために、神のひとり子 イエスが、私たちの身代わりになってくださったのです。

父なる神が、私たちを集めて、その懐の内に取り戻すため。
その父の喜びが、私たちのうちに溢れ出るために…!



友との交わりが壊れた。

交わりを壊すように策略を巡らした悪魔を私は憎む。
悪魔の策略にのってしまった、罪残した友の”肉”を私は憎む。
悪魔の策略を退ける責任の自覚と、その努力を怠った友に、憤りを覚える。

でも、友の魂、その存在、友の内に住む御霊、主イエスを私は愛している。
だから、交わりの破壊は、私の心にも大きなダメージをもたらした。

その友が、和解の言葉を送ってくれた。
私の悲しみは、差し込む朝日の光を受けた、朝露のように消え去った。
重くのしかかっていた黒い霧は消え去り、身体は健康を取り戻した。

もちろん赦すにきまっている。
むしろ、赦させてくれて、その機会をくれて、私はとてもとても感謝している。

でも、ごまかすことのできない事がある。
壊れた信頼は元には戻せないということ。信頼の回復には長い時間と実績が必要となる。
人は、あくまでも自分でまいた種を自ら刈り取ることになるから。

私は、それを担うことはできない。
それは、神が定めたことだから。どんな言い訳も通用しないこと。


でも、敵の策略に気づいて、すぐに神に立ち戻った友を私は尊敬する。
私たちは主に直接お会いする時まで、完全ではないから、あるときイエスを忘れて、とんでもないことをしてしまう危険は、誰にでもある。
私だって、道からはずれて間違いを犯す可能性は0ではないのだから。0にしたいけど。

その時は、友のように、イエスの御前に進み出る者でありたい。
自らの過ちに気づいたとき、ただちに相手に謝罪を伝える、そんな、イエスに対して素直な者でありたい。

友のように、私もイエスと親しい親友になりたいと思った。


友が笑ってくれるように願っている。







2 件のコメント:

  1. 自慢じゃないですが、長く生きてきているのでいっぱいそのような経験があります。切断はのた打ちまわるような痛みを伴います。特に信徒間(コミュニティー)での切断が‘激痛、これ耐えられな~い!’です。神がデザインされた状態じゃないからなんですね。
    ポピーさんはそのお友だちと和解できて良かったです!両者がお互いに赦し合うことによって信頼関係が再び築き上げられていきますよ。大丈夫。(その経験もあります。(^^♪)

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    1. Hitomiさん、コメントありがとうございます\(^o^)/レスが遅くなっちゃってすみません。
      健全な交わりは、神様のデザインだと思い知ります。そうでなければ、ここまで苦しくはないでしょう!
      私たちは、みな赦し合うことで、自分の居場所を取り上げられずにすみますね。三歩進んでニ歩下がっても、一歩は前進してる。そうやって信頼関係も、前進しくと信じます(^-^)

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