6月のミドラッシュのセミナーから、旧約聖書(本来は、旧ではなくタナクと言う。聖書の本体)の学びと、ヘブライ文化や思想から読むように、学びを始めて来ました。
ヘブライ的聖書の講釈をする講師の説教だけでなく、ユダヤ人ラビの福音書の研究書や、言語検証なども翻訳されたもので、手に入る物をできるだけ取り寄せています。(翻訳物は、ほとんどが古書しかなく、また絶版のものも多いので、そろそろ英文の原書を取り寄せて学ぶ必要になってる。)
ただ、それだけ調べただけでも、今までの聖書理解が、西洋文化や哲学、心理学に汚染されてしまったものだった事が確認でき、痛いほどいよく分かりました。
私は、まったく検討違いな所にいて、イエスを探してもがいていたのです!
私自身、御霊が内に住まわれている事は、間違いありません。それは、信仰的にも経験的にも確信があります。
でも、いのちを共にしているはずのイエスとのコミュニケーションが円滑でないのはなぜなのか。
イエスの実体に手応えが無いのはなぜなのか。それを見い出したかった。
正直になれば、みな同じ実体のなさを感じているのではないでしょうか?
私が、イエスに求めに求めて、今たどり着いたこと。
それは、イエスが生きられて、人々に直接語りかけられた、時代の文化、思想にまで立ち返ること。紀元前一世紀のヘブライ文化とヘブライ語、ヘブライ慣用句(「さじを投げた」とか「骨が折れる」のような文化の中で意味が知られているもの)を学んで聖書を読み、「理解する!!!」事が必要だということです。
新約聖書は、なんと言うか…、実は「上澄み」にすぎない。(「すぎない」は言い過ぎですが、思い切ってそう表現しました)
神ご自身、そしてイエスの実体は、ヘブライ聖書(旧約聖書)にあります。
それも、モーセ五書といわれる「トーラー」こそが、その本質。土台。
いや、「トーラー」こそ、主イエスご自身です。
※ 本来は、文献によって、それを説明すべきですが、今は、独白でお送りしております:)
「トラー(モーセ五書)」が、聖書の土台です。
旧約聖書とよばれるタナクの預言書や諸書は、すべてトラーを土台としています。
そして新約聖書とよばれる、イエスの受肉と、十字架と復活、それ以後のイエスとその弟子の働きは、すべて、タナクの成就として現在に至っているということです。
これは、ショックです。私は、ショックでした。
はじめ、人に聞いた時は、喜んでいました。鍵を見つけた!と、希望に沸きました。
でも、自ら調べ学んで、理解したとき、それは突っ伏すほどに、脱力するほどにショックを感じたのです。今までの9年近く、なんて無駄な足掻きをしたのか。すぐ、近くにあったのに、ずっと気づかなかった。
でも、これがスタートです。
事実を知ることは、的に向かう正しい道に立つ事を意味しています。
私たちは、聖書自体を自分の生まれ育った価値観で読んではいけなかったのです。
今までの自分はすべて死ななければ。
知識、経験、知恵。一度、捨てて幼子にもどる必要があります。
私たち異邦人は、古来より神により育まれた、古来より神によりその教えが温存されているユダヤより学ばなければならないと切に思いました。
もちろん、その中にも人の教えが混ざり込んでいることは現実であり、現状でしょう。
でもイエスを信じる者は、共同相続人の証拠として、御霊が与えられています。
御霊が見分けさせてくださる。なにも心配はいりません。
この、神の仰せに注目してみてください。
ゼカリヤ書8章
20
万軍の主はこう仰せられる。「再び、国々の民と多くの町々の住民がやって来る。
21
一つの町の住民は他の町の住民のところへ行き、『さあ、行って、主の恵みを請い、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。
22
多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」
23
万軍の主はこう仰せられる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、『私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」
私の心は、今この思いではち切れそうになっています。
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