伝道者の書 7:1〜4
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。
先日、父の兄である叔父が白血病で亡くなりました。
私は、長女であるので、この土日は納棺から、初七日まで全てに参加しました。
叔父は、生前私たちの町会議員を勤めたり、福祉活動に協力したり、地域にとても貢献した人でした。それで、今回の通夜や告別式には、今まで見た事のないほどの沢山の人々が来てくださって、正直、驚きました。
私は叔父について、中学校くらいの時期の記憶しかなかったです。
車で5分の近所に住んでいながら、…いや、むしろ近所だからか、叔父が地域において、どんな貢献をしているか、また苦労をしてるかも、全然知りませんでした。
また、お手伝いの青年が50人以上集まっていて、手際よく準備をしています。
「消防団とか青年団とかの方かな〜?」
と、思っていたら、それは叔父の子供たちである、私の従兄弟たちの高校の友人たちだそうです。新聞で見て、自発的に集まっているのだそうです。それが普通なのだとか。
私なら、そんなふうに友人たちがお互い自発的に集まるなんて事はありえません…。
ずっと地元で生活し、その地域の活動に協力して、少しずつ絆が育まれていたからこそなのだろう…と、親族たちが話していました。
今まで「”教会”中心」なんて”宗教”してきたこと、疑問に思って長らく悩んだ期間…、本当に時間を無駄にしてしまったことを悔やみます。
聖書の言う、神の単位は「家族」単位。「家族中心」です。
もっと早くに親族や地域に目を向けて、交流をもつ必要があったと思いつつ、今からは、家族、親族、地域を大切にしていくことに喜びも覚えました。
私の地元は、葬儀の時は明るく楽しく盛上がるのが習わしのようで、久しぶりに集まった親戚と、そりゃまあ大いに笑い、盛上がっていました。火葬の時までは。
告別式が終わり、火葬の順番がきて、皆で棺桶の遺体に花を添えていきます。
そこで初めて、みな静かに涙を流していました。父は、じっと叔父の顔を見つめていました。
皆で遺体の横たわる棺桶を火葬場に運びました。
静かに、棺桶が火葬炉に入っていきます。
扉は、ゆっくりと閉まっていきますが、扉の閉じる最後の一瞬は、なぜかドキっするように早く感じました。
控え室で待つ時になって、ようやっと人の一生涯の儚さを突きつけられたようでした。
私たちの一生涯は、本当に儚い。
日々にあった、喜びも悲しみも、悩みも安堵も、苦労もその報われた満足も、存在する理由はなんであっただろう…。部屋にかすかな空しさが漂いました。
本当に大切なこととは…。
それが、ふと永遠を思うとき。それが神に気付くときのよう。
人知を越えた、大きな営みの有無を、思い巡らすときのように感じました。
そこには、静けさがありました。
詩編 90:10-12
私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください



