2013年12月25日水曜日

「聖書の基準」と「教会の基準」

先日は、以前所属していた教会が開催する、毎年恒例のクリスマスコンサートに行ってきました。

ほぼ毎週礼拝前や、礼拝後に兄弟姉妹との交わりもそこそこに練習に励んでいるクワイヤーの労が報われることは、私も嬉しく思います(^^)

兄弟姉妹と久々に会って元気な顔が見ることができて、とても嬉しかったです。
「あー、ポピー(ブログ主)元気だった〜(^^)♫?」と声をかけてくださる方もいて、本当に元気で温かい♡主にある家族を喜びました。

しかし…。
ココからは、”教会”の典型にむかついた本音トークっす…(怒)
人によっては、読まないほうがいいかもですゾ(-”-)

ここまでダイレクトに素直に言うヤツがいるとは思わなかったあのセリフ…。
それは、「”○○教会”を出た人」に対しての典型的な評価が、思わず素直に出てしまった兄弟の一言です。
兄「やあやあ、元気だった?」 
ポ「久しぶり!元気してますよ (^^)!」 
「へぇ〜ほんと〜?落ちぶれてるんじゃないのぉ〜?(悪気なし)」

でたぁ…!クラクラ〜ッ(*3*)コレなのです。コレ!
シクシクシク(T_T) 情けないっ…。もうね。いい加減、こういうの止めましょう?


うちの教会に集っていれば、祝福される。うちの教会は正しい教会。
うちの(牧師)先生は、他の先生たちよりも良い。正しい。祝福されてる油注がれた器…etc

そして、反対に、別の教会に行く人には「問題」があって、出て行く人、来なくなる人は、人生が悪い方へ行く(呪われる)。

それで頭を打って悔い改め、放蕩息子みたいに落ちぶれて、泣きながら「ごめんなさい。悔い改めます。」って”牧師”にすがりついて戻ってくる…という ”思想” です。

兄弟よ。分かってますよ。あんさんは、もちろん悪気もないし、それが親しい愛情表現の一つだという事も…。

そして、”○○教会” に休まず集っていると、そういう思想がいつの間にか頭のなかに生じてしまうのですよね。実際、私もそのように思っていました。

いなくなる人がいれば、皆この思想をベースとして話していました。
自分たちの  ” 教会 ” の方にこそ、彼らを居づらくした問題があるのでは?とは、かけらも思わなかったのです。

自分が ”○○教会” 出る事を悩むようになって、初めて居なくなった人々の胸の内、その一人一人が事情と悩みを持っていたという現実を、私自身まるで見ていなかったことに気付くことになりました。

たまに、牧師がその人の事を解説するのを聞いていたので、自分も来なくなったらこんな風に、牧師目線の診たてを人々に話されるんだろうか…?と思ったものです。
「”問題”をそのままにしているので、いずれ頭を打って戻ってくる。その時は、前よりひどい状態になっている」
ああ、そんなこと聞いたら、恐怖の動機づけされちゃうの当然でしょう。


さて、しかしこの ” 思想 ” の本質って何でしょう?それは、聖書に照らしたときに、恐ろしいものです。
これは、典型的な ”○○教会信仰” です。「○○教会 ”教” 」もしくは、そこの指導者対象の「○○牧師 ”教” 」ではありませんか。

大げさですか?
単純に、「教会のことを大好きな、牧師思いの微笑ましい信徒なだけじゃないのかな?」と思われますか?

いいえ、これは本質的には分裂です。(Ⅰコリント1:10〜13)
「○○先生につく」「△△先生は油注がれた器」「□□教会は主に祝されている」
他教会の兄弟姉妹との交流に良い顔をしないのが、ひとつの証だと思いますがいかがでしょう。

しかも、それには「祝福」「呪い」が伴うと思っているならば、これは紛れもなく「偶像礼拝」ではないでしょうか。

なぜなら、祝福と呪いは、Torah(トラー:モーセ五書)に明らかにされている「神のことば」「神ご自身と交わしている契約」に、一人一人が聞き従うかどうかの結果です。
その契約、すなわちシナイ山での「婚姻契約」は、今現在も変わらず有効である事を知る必要があります。

そして、私たち異邦人は「神のことば」そのものであるイエスを信じる「信仰」によって、その契約の祝福は今ここに、すでに与えられているのです。

私たちは、すでに神の教えであるTorahを「生きる」ように、修復されています。
イエスによってです!
その事実を私たちは、日常の日々の中に発見する事こそ、最優先に大切なことではないでしょうか。

”○○教会” に集うから?奉仕を熱心にしているから?十分の一献金をちゃんとしているから? 教会行事にことごとく参加しているから? ”牧師”に忠実だから? 祝福されるのですか。
愚かしい事です。そんな基準はありません。

むしろ、これら教会ごとには熱心でも、「神のことば」に熱心でなかったら、「神のことば」であるイエスと、何の関係がありますか。

今回の牧師のメッセージのように。(←いやみ)

集う群れは、どこでも良いのです。「母教会」という概念は日本特有で、聖書にはないものです。

イエスを信じる者は、神のことばにその基準を置きたいものです。


詩篇 46:10 
「やめよ。 わたしこそ神であることを知れ。 わたしは国々の間であがめられ、 地の上であがめられる。」



恐れるべきお方を恐れましょう。そこには、求めている安息と自由があります。

聖書を愛し、御言葉を愛し、イエスを愛する兄弟姉妹と共に集える日がくることを願っています。


2 件のコメント:

  1. 毎度コメント、ポピーさんの追っかけみたいですみません。
    ホント、あまりの盲目さにため息出ました。
    教会教、教会信仰の現実ですね。
    これが実態ですね。
    でも、主を追い求めて恐るべき方を恐れ、立つべき御言葉に立つならば
    教会信仰の魔の手からは逃れられると信じてます。
    現にポピーさんは脱出成功したのですもの。

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  2. makoさん、コメントありがとうございます!追っかけ大歓迎(笑)!
    盲目は、私自身が誰よりも盲目だったのだとつくづく思います。
    今も暗闇に光る、一点の光を頼りに歩いているようなものですが、だからこそ神のみことばの灯火に信頼し、主と共に歩んで行けることを本当に心から嬉しく思います。
    いつも励まし、ありがとうございます!
    2014年も、どうぞよろしくお願いします\(^▽^)/!

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